すべての夢のたび。

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マシュマロ世界の詩と論理

論理的な文章とそうでない文章、というものがあって、後者を「非論理」的文章と言ってしまうとちょっと悪いイメージがあるので、詩、「詩」的文章、とここでは呼ぶことにします。もちろん「完全に論理」とか「完全に詩」というのはそれほどなくて、多くの文章は論理から詩へのスペクトルのどこかに位置づけられるものと思います(ぼくの書くものなどは「詩」寄りだと思っています)。


「言語で世界を解釈する」「言語が世界を創造する」などというときの「言語」は、言語のはたらきのうちの論理的な部分を指しています。たとえば世界がマシュマロでできているとしますよね(いきなり非論理かよ)。「論理的な文章」とは、このマシュマロの表面を、堅いワイヤで編んだ網でおおっていくようなものです。そして「見ろ、これが世界のカタチだ」と言うわけです。網だから、線の流れを追って行くことで、基本的には誰でもそのカタチを理解することができる。しかしここでは気をつけなくてはいけないことがあります。ワイヤはとても堅いものなので、マシュマロに触れたとき、その表面を歪めてしまうんですね。あるいは、表面から浮き上がっていて、マシュマロのないところに網があったりする時もあります。そしてまたよくあるのが、網の見事さ、規則正しさや模様の美しさをもって「良い網だ」と感じてしまうことです。

では、言語のうちの詩的な部分はどのようにはたらくのか? これは、マシュマロの表面にピンポイントでマーカーを置いていくようなものです(「詩人」は「想像力」でもってマシュマロの表面を飛び回る←詩的表現)。たとえば「論理」で言えばワイヤとワイヤの交点にあたるような部分をマークするわけです。そして、最小限のマーカーだけで世界のカタチを把握させようとします。このとき、やっぱりそのマークのやり方にはかなり個人的なクセが出るものでして、その人のパターンに慣れてない人が見ると、あるマーカーから他のマーカーへのジャンプがたどりにくいのです。なんでそこをそう飛ぶのかと。ちょっと言い訳をするとですね、適当に置いてるわけじゃないんですよ。慣れで、置くべき場所が先に見えてしまうんですよ。昔だったらワイヤを編みながら到達してた地点だったはずなのですが。もういまさら「ワイヤならどうなるか?」って編むのがメンドいっていうか、でもたどる気のある人には追えるようにマークしてるつもりなんですけど。

こんなふうに、「論理」と「詩」の言葉の使い方はまったく違うわけです。ただ、今の世の中は論理が圧倒的優勢で、詩は劣勢ですけどね(でも必要です。ユリイカも「詩と批評」だし)。「詩」なのに「論理的じゃない」とか平気で言われちゃったりするのですが、それは「生粋のキリスト教徒」が、仏教の教義を見て「キリスト教的じゃない」って言うのと同じくらいナンセンスです。(と言われてもピンと来ない人は生粋のキリスト教徒です。ついでに言うと「宗教」を「科学的じゃない」って批判するのも同じ構図なんですが、これは宗教側も「神の存在を“証明”する」なんてやってるから、感染しすぎと思う)


「ワイヤの網」がマシュマロの表面を区切っていく。そして編んだ人は「ここはシロ、そっちはクロ」とかやったり、自分は網のここにいる、などと言ったりするわけです。すると別の人が、いやここはクロでそっちがシロでしょ?とかやりはじめる。論理的文章であればどんなものであっても反対意見を言うことができるし、むしろ「境界線」がハッキリ見えるほど言いやすい。ぼくはシロかクロかとかはあんまり興味がなくって、それよりも、「境界線」がどんなふうなうねり方をしてるか、とか、これは初めて見るパターンの編み方だな、とか、「お、そこはまだ網でおおわれたことがなかった場所ですね」とか、そういうほうに関心があります。編んだ人が境界のどっちに立ってるかとかけっこうどうでもいいですね。おそらく文章の読み方にも「論理」的と「詩」的があって、ぼくはそっちもやっぱり後者寄りなんでしょう。