すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

The Parallel Past Theory.

namelessさんにいただいたコメント(その1/その2)や、算術師さんのエントリを読んで、ぼんやり考えていました。多くの人は、未来というものは未決定であり、自由意思において選択可能な局面がある、と考える。一部の人は、未来はあらかじめ決定されている、運命により定まっている、と考える。しかし過去については、ほとんどすべての人は、それはひとつである、と考えている。

そうなのかなぁ?と思う。過去が複数、というのは、有り得るのじゃないか?


その前にまず、なぜ未来は未決定に見えるのか、というと、やはりぼくがこうしてキーボードを叩いていてもこの先何を書くのかまだはっきりとは形になっていないというか、あらかじめ完成した文章があればそれを投稿して終了でなんとも楽なんですが、しかし実際はこのようにいちいち考えてエントリを書かねばならん、と。そういうことでしょうか。無数の可能性の中からひとつを選んで現在に固定する。ひとがそれをするから無数の未来がひとつの現在に固定される? 人というか、生き物が、かな? 生命の存在しない宇宙だったら全ては計算可能で機械的で決定論的なんでしょうか(そして、いや人の考えることだってあらかじめ決まっているのだよ、という見方も、少ないながらも一方にはあるわけですが)。


現在、という点がある。過去がひとつしかないなら、現在から過去へは幅のない線が延びているわけです。でも未来は複数なら、現在を円錐の頂点として「可能性」がそこから広がっている、という図を描けます。あれだ、ひもを引っ張って鳴らすクラッカーみたいなかたち。

で、このクラッカーの逆を考えてみる。つまり、過去が円錐状に広がっていて、現在は点、未来もただの1本の線、という。そんなものがあるのか?という。あります。ライフゲームとか。ルールにランダムな要素がないため、「ある世代」を取ってみると、「その次の世代」がどういう配置になるかは完全に決定的です。その一方で、「ある世代」は複数の過去を持つことができる。異なるパターンが世代を経て同じ配置に落ちつくケースは存在する。つまりライフゲームは未来より過去の方がバリエーションが豊かである、と言えると思います。それとか、囲碁や将棋だって、「ある局面」に辿りつくのに経由する手順が複数ある、ということは考えられますよね? そんなふうに、この世界にだって「並行過去」が存在するということも、なくはない、のではないでしょうか??


……ってなるのか、そういくのか、というと、ことはそう簡単にはいかなげですよね。なんたっても人には、記憶、というものがある。実際にぼくらはただひとつの過去を覚えている、と感じている。複数の過去を覚えていたりはしない。でも逆に言えば、過去の記憶がひとつしかない、ということぐらいしか、過去がひとつである、ということの根拠もないような気がします。いや、カメラやビデオで撮影したり、録音したりすれば、何かが残る、過去はひとつだ、と人の記憶による以外でも証明できるのではないか?という反論もあるでしょうが、でもそれらの「記録」は必ず、オリジナルから何らかの情報は欠落しています。あたりまえですが、「そのもの」ではない。あれとこれを撮影した結果が同じものになる、ということはあるので、そういう「記録」から「過去はひとつ」と言い切ることはできない、と思います。

というか熱力学第2法則? コーヒーに落としたミルクは混ざってしまって元にはもどらないわけです。局地的には黒と白がいろいろな模様を描くように見えても、時間が経つにつれどんどん混ざっていき、結局最後はブラウン一色になってしまう。そのようにこの世界、宇宙、広がりを持つ過去も円錐の頂点へと向かっていってしまうのではないでしょうか。


とまぁ、寝言ポエム、パラレル過去説でした。タイムマシンを作って過去に戻ろうとしても、そこは「タイムマシンがやってくることにあらかじめ決まっていた過去」なんですよきっと。ほんとうに行きたかった、変えたかった、やり直したかったその過去には辿りつけないのです、たぶん。