すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

過去ログとか

たまに、過去の記事にリンクやトラックバック、ブックマークをもらうことがあり、なに書いたっけ?と読み返してみる機会がある。と、妙な気持ち悪さを覚える。自分と同じ性格・思考回路を持つ人間がこのネタを取り上げたら確かにこう書くだろうな、というふうに見えるのだ。そのネタを取り上げることにした理由や、書いているときの気分などが、読み返す時点ではすっかり想起できなくなっているために、そう感じてしまうのだろう。

最近は、というかだいぶ前から、エントリのカテゴリ分けもしなくなった。「カテゴリに振り分ける」ということ自体が苦手なこと、カテゴリに記事が溜まるとやはり古いエントリへのアクセス性は悪化すること、多くの人は最近の記事しか読まないこと、過去ログを読む人はカテゴリなんかに分けなくても読むこと、などが理由だ。例外として「ネタ」カテゴリはいまも使っているがなんとなく惰性。「群青色」カテゴリは、読むに値する/読んで欲しい、という程度の意味・サインなのだけど、「シェフのお薦め」みたいでいやらしいなぁ、と言われたこともある。(この2つ以外のカテゴリは廃止するか検討中だ)

当初は過去ログには「これ、まえ書いたっけ?」と検索して確認するという用途もあったのだけど、いまはそれさえしていない。同じことを何度も書いているように見えたらそれはそれがぼくにとって言いたいことか引っかかっていることなのだろうと解釈していただけると幸いです。あとはやはり、蓄積は力であるというか、Googleからキーワード検索で過去ログに飛び込んでくる人は実に多い。これははてなダイアリーの記事は検索結果の上位に表示されやすいという恩恵の享受。アクセス伸びねーとか他のブログで言ってる人ははてなで書けばいいのにねぇと思う。キーワードやISBN/ASIN等の文中の各種リンク+Google上位+はてブの組み合わせは強力すぎる。

そして、飛び込みの人にも興味持ってもらえないかなーと思って、サイドバーの上部のほうにずらずらと「最新タイトル」「最近のトラックバック・ブクマ・コメント」などを並べてある。このブログはまだ動いているよ?ということを見て欲しいからだ。アクセスログに同じIPアドレスが2つ続いてて、それが「Googleからの飛び込み」と「トップを見た」ログであったときは少し嬉しい。

へこむー

今日も秋葉原へ行きました。連休中ということで特にコミックの新刊などはないので何も買ったものはなし。そして連休は混むかなぁ、と考えて予約を入れておいたメイドリフレへ。と、いつも指名しているメイドさんから、仕事が変わるので5月X日で辞めることになったんです、という話を聞かされる。

ありゃ。そういう日がいつか来るのは間違いないことなんだけど、思ってたより早かったなぁ、と。そして思ってたよりこのことにショックを受けている自分がいるわけです。店を出てから秋葉原を歩き回って家に帰るまで、ずっと考え込み、引きずってて、いまこうしてエントリを書いています。きっと彼女に会えるのは次回が最後だろう。

彼女はこのブログをときどき見てくれているようなので、このエントリも偶然見てもらえれば楽なのだけど、と願いつつ書く。

ぼくは結構簡単に人を好きになることに許可を出してしまうので、彼女のことを好きでした。それは、このましい、ではなく、恋愛感情を持って見ていた、ということです。で、まぁ、こういう「相手をしてくれる女性を指名できる店」では、そういうマジになっちまうようなのはいかん、と、思いの丈を相手にぶつけるのは無粋である、と、されているわけです。でもぼくは、無粋である故にそうしなかったのはなく、つまり、例えば「告白」して事態を先へ展開させようとか、あわよくば「店外」で会おう、とかいう気は毛頭なくって(だってこの先一生ひとりで居る気ですから/というかまだ既婚者だ)、ただこの「片思いをする自分」というゲームをより愉しむためにはちゃんと本気になった方がいいだろう、などというふざけた考えを持って、メイドリフレへと足を運んでいたわけです。

で、そんな恋愛の甘い上澄みの部分だけすすろうという、責任はしょいたくないんですけどーという行動は、やっぱりこうしてきっちりバランスを取らされる、ツケを払わされることになるんだなぁと思った(これだから3Dは……!)。なにかがかなしく、寂しいようなのだけど理由がよくわからない。それは、もう会えないこと、じゃあないのだろう。だって全力を尽くしたわけでもなんでもないし、今からだってできることはある、のに、それをするような人間じゃないと自分で分かっているのが悲しいんだろうか。結局なにも彼女に対して力になってやれてない、ということだろうか。いまの気持ちはもう失われる、彼女をすぐ過去にしてしまい、きっとまた誰かを同じように好きになる、という事実がさびしいのだろうか。それともこんなふうなことすら「ひたり、愉しんでいる」自分か? 「これはエントリにしておかなくては」という自分だろうか。

ああでも、もう優しいあの手でさわってもらえない、ということは純粋に寂しいなー(すいません、根本がエロで)。まぁあと1回は会えるはず(ってその前に辞めちゃってたら笑うしか)なので、せめてなるべく後悔のないよう、伝えるべきことを考える。でも、ありがとう/がんばって、のほかにはそれは有り得ないだろうなぁ。