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すべての夢のたび。

1日1記事の雑記ブログ

いつか豚の角煮を作る日のために

はてなブックマーク > GIGAZINE - とろけるように柔らかい「豚の角煮」を手抜きで作る


誰も彼も豚の角煮には勝てませぬというお話。これ書いてる現在で378ブクマなので、500とかは超えちゃうんだろうなぁ。これをブクマしてるひとのブックマークって、こういう「いつかきっと」系ばっかりなんじゃないか、という予想。そしてはてブ人気エントリーの中でも、ひときわ多くの、数百のブクマ数を稼いでる記事って、結局こういうハウツー系・お役立ち系ばっかりなんですよね。「いつか、いつか役に立つかもしんない」ってせっせと溜め込んでるんだろうなぁ。捨てる技術の話はもう忘れちゃった?

ダイアリーの表示モードの話

はてなダイアリーで1日に何回か更新したときに「ブログのタイトルしか表示されないもの(例)」と「小見出しではなく大見出しがタイトルに表示され、一日のログすべてが表示されるもの(例)」と「記事ごとに独立したエントリになり小見出しがタイトルに表示されるもの例」の3種類くらいがある。デフォをぜひ3つ目のにして欲しいなぁと思う今日この頃。そいえば、はてな界隈でこの良し悪しについての議論を見たことがない…


「ブログのタイトルしか表示されないもの(例)」がうちへのリンクになってるし(笑)。それはですニャ(ニャとかどうよ)、うちも「3つ目の」に切り替えようと思ったことはあるんですよ。でもそれをやると、エントリのPermalinkのURLが変わってしまう!のですね。するってーと今までこの日記に向けて張られたリンクが全部ぶち切れですよ。もう見てらんない。過去ログを重視するダイアラーにはお薦め出来ない、というわけです。

管理画面には「※表示モードはいつでも切り替えられます。」って書かれているんだけど、まさかURL変わってもちゃんと誘導してくれるとか? それか、切り替えた日以降だけ変わるとかならやってもいいんですが。教えてはてなのえらい人。

「世界を閉じる物語」を編む

群青色

いま必要なのは、「世界をどのように終わらせるか」を考えることだ。



「大きな物語の喪失」が叫ばれて久しい(ようだ)。ぼくは「大きな物語」とは、「社会的に共有された、生きる意味を与えてくれる大きな目標」のようなものだと考えている。たとえば、よい大学を出てよい会社に入り好きな相手と結婚して子供をもうけ幸福な生活を送る、だとか、飢えも戦争も環境問題もない平和で明るい未来、だとかだ。なんだかぼくの「大きな物語」は微妙に貧しいような気もしないでもないが、それこそが「大きな物語の喪失」によってもたらされている事態(要するに「イメージが沸かねえ」)であるかもしれないということにしておいて欲しい。

で、その「大きな物語」は、いま、喪失し崩壊し終焉を迎えて機能不全であると言われている。いい会社入っても結婚しても必ずしも幸福になれるわけじゃないみたいだねぇ、とか、なーんかいっつもどっかで戦争やってるよね、とか、みんなが気づき始めた。いまのまま進んでも、明るい未来に辿りつけやしないんだな、と。とはいえ、人は目標なしに進むことはできないし、社会もそう簡単には方向転換できるわけではない。いまのところは、「大きな物語」を支えていた個人個人の「小さな物語」を、成長し発展し拡大することこそが“善”であるとして作られた倫理や法律や社会構造のなかで、「なんか違うな…」と感じつつもとりあえず進めていくほかはないのだ。

そのような状況下なので、「終わりなき日常を生きろ」だの「ロハス」だの、「まぁなんとかこのまま行きましょうや」的価値観が提案されたりもしているのだろうけど、ぼくはもっときちんと「終わり」を考えたらどうか、と思う。いや考えるべきだろう。だっていずれ終わるのだ。始まったものは終わるのだ。永遠の半分なんてものはないのだから。


あなたは「たとえ自分が死んでも、誰かが自分のことを覚えていてくれればそれでいい」と言うかもしれない。しかしその人だってあなたが死んで100年すれば死ぬ。いまから100年経ったらこの地球の数十億の人間は全員入れ替わっている。あなたのことを覚えている人は誰もいなくなる。なにか歴史に残ることをする? 銅像を建ててもらう? ずっと残るような建築物を作る? 地名に名を残してもらう? しかし一説によると、「人類」の寿命はあと5千〜1万年程度と言われている。統計的に「なにかものごとが始まり、その発展度がピークを迎えるまでに要した時間」から、その終わりの時期は予測でき、現在を人類のピークとすると終わりはそのくらいになるそうだ。まぁ今がピークかどうかは判らないが、19世紀からの100年のような急激な発展が今後もずっと継続するというのも、すこし考えにくいだろう。

その「予測された終わり」をなんとか越えたとして、たとえば数十万年・数百万年も経ったとする。そのとき、そこにいるのはもはや「人類」ではないだろう。ネオダーウィニズムが正しいなら、そんなような地質学的時間が経過すれば、人間はどんどん勝手に突然変異(と自然淘汰)を起こしてしまっていまの形態とは懸け離れたものになっている公算が高い。まぁ遺伝子は痕跡を残しているだろうけれど。5億年もすれば気温の上昇で地球からは生命圏が消失する。数十億年もすれば太陽が寿命を迎えて膨張し、地球軌道は太陽に飲み込まれる。

それまでに、まぁそんな事態になるよりもとっくの昔に、もう人類は地球を脱出してました、遺伝子も自由に操作できるようになってるし、安住できる惑星系も見つけました、ということにしようか。しかし今度は宇宙が終わる。宇宙がビッグバン以来現在も膨張を続けていることはまぁ一般常識と考えたいと思うけれど、最近の観測結果によって、その膨張速度はなんと加速を続けていることが明らかになった。普通?に考えれば、ビッグバンの勢いもそのうち衰え、だんだん速度は落ちてやがて静止し収縮に向かいそうなものだが、そうではなく、膨張するにつれますます重力の縛りを逃れることになり、結果的に速度はなお増し続けているようなのだ。これは宇宙全体の物質密度がどんどん低くなり、最終的にはもう新たに恒星が作られるほどの星間ガスを集めることはできなくなるということを意味する(無から有が創られない限りそうなる)。

いつか遠い時間の彼方で、宇宙全体が死を迎える。光も動くものもなにもなく、ただひたすらずっと永遠に「そのまま」であるだけの世界が訪れる。それが現在の科学が描く未来だ。そのときその場所で、いまあなたが誰かを好きであったとか、誰かと愛し合っていたとか、なにかを成し遂げようと頑張っていた、あるいは成し遂げた、ということは、果たしてどのような意味を持つのだろう。「いや、確かにそれをしたという事実は残る」とあなたは言うだろうか。しかし、「事実が残る」とはいったいどういう意味か。誰もいない世界のなにもない空間に事実が残るとは、どういうことだろうか。事実が残っている空間と残っていない空間とでは、なにかが違うのだろうか?

そう、世界は終わる。そしてなにも残らない。それがぼくらの視たぼくらの未来だ。


だからぼくらはいま「終わり」を考えるべきなのだ。「大きな物語」の残滓にすがって生きるのではなく、代わりとなる新しい目標を立てるべきなのだ。いや、目標を立ててそれに向かって進む、といういままでのやり方こそを、もう捨て去るべき時なのだ。そのやり方は「無限に成長し発展し拡大することが可能である」という前提のもとでしか機能しない。しかし世界はそうではない。5千年後か100万年後か100億年後かはわからないが、いずれ確実に終わる。そして、なにも残らない。そこになにかを残すことはできない。いずれ全ては無に帰す。それがこの世界についてのぼくらの知見なのだから、そういう世界での生き方/終わり方こそが考えられねばならないだろう。

ヒントにしたいのが、(ぼくの愛する)漫画『ヨコハマ買い出し紀行』だ。ぼくがこの漫画に惹かれた理由は、ほかではあまり見ない「閉じゆく世界」を描いた物語だったからだ。環境破壊による異常気象か、海面が上昇して人口も激減している近未来の地球(日本)。黄昏を越えて夜に向かう世界。しかしそんなことには負けずいつかきっと訪れるだろう明るい未来を信じ希望に燃えて頑張る人々を描いた作品、ではまったくなく、人々はそこがやがて終わる世界であることを受容しており、それでも自棄になることもなく淡々と、いや完全に淡々とでもなく時にはいろいろ悩み考えつつも、しかし日常を平穏に積み重ねていく。平穏に積み重ねていくのだ。人は、人として、その時その場所(いま/ここ)で、為すべきことをただ為す。未来や希望を必要としない生き方であり、そしてそういう方法は誰にも可能であるはず、と思う。

しかし日本人は実はもうそういう未来を察知しているのでは、と考えることもある。晩婚化そして少子化、自殺者の増加、働かない若者の増加。こういったことは旧来の「大きな物語」の倫理では“悪”とされるだろうけれど、古い物語を引きずる社会に対する物言いでもあり、明るくはない未来への予感が反映された結果でもあるだろう。そして「世界を閉じる物語」においては、必ずしもこれらは悪ではない。いつまでも成長発展拡大し続けることなど絶対に不可能なのだし、どこかで流れを反転させなければいけないのだから。その過程では痛みを伴うこともあるはずだ。しかしそれは一時的なものに留まらせることは可能であると思う。個々人が、(機能不全となった旧来の)「大きな物語」を前提とした「小さな物語」を捨て、新しい、自分のための、「終わりへの物語」を編むこと。「より豊かに世界を閉じる物語」を編み始めることを、いまこそ為すべきなのだろうなと思う。(だいたい日本人は「侘び」とか「寂び」とか好きだったではないか。できるはずだ。というか宗教もないのだしやるほかないだろうよ)



どうだろうか。「ぼくの物語」はこんなふうなのだ。これが現在の日本社会を構成する大半の人々からは「逃避」、それも「とんでもない逃避」に見えることは承知している。しかしこちらから見れば、数十年や、たかだか100年やそこらしか先のことしか考えない生き方(子供たちに明るい未来を、とかなんとか)は、ひどく「刹那的」なものにしか見えないことも、またお伝えしておきたい。