すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

ボクシングをする

金平会長は、「異論はあるだろうけど、大毅はものすごい練習をした上で、歌ってる。それに何千人ものファンがついてる。興行上の工夫の問題。『バカにしてる』とかの批判はお門違い。そこまでの努力を買ってほしい」と擁護。


「ものすごい練習をした上で、歌ってる」て。歌手ですか。

子猫を殺すことについて

痛いニュース(ノ∀`) : 作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る


これニャー。書いとかなきゃニャー。と思ったので書く。

みちアキは猫大好きである。以前は自分でも飼っていた。2ヶ月くらいの子猫だったのをもらってきたのだ。雑種の雌だった。甘えん坊で、それはそれはもうたいへん可愛かった。猫を飼うのは初めてだったので、本など買ってきて、避妊手術をする必要があることを知り、そろそろかな、というころに、嫌がって暴れるのを近くの獣医へ連れて行った。数日入院。そして連れて帰ってきて、彼女の、毛の剃られたピンク色のお腹と、そこにある引き攣れて盛り上がった縫い跡を見て、自分は取り返しのつかないことをしてしまったんだと知った。後悔した。ごめん、ごめん、怖かったよねぇ、と彼女を撫でながら謝った。

そういうこともあったので、この作家の人の行動(飼い猫の避妊手術はせず、生まれてきた子猫を殺す)は、理解できる。そういう責任の取り方は有り得ると思う。ぼくの考えでは、たとえばペットが飼えなくなったときにするべきことは、よくない方から順に、逃がす・飼ってくれる人を探す・保健所に連れて行く・自分で始末する(殺す)、だと思う(もちろん本来最後まで面倒を見るのが当然だけど、それがどうしてもできないとき、だ)。代わりに飼ってくれる人を探すのは最善ではない。なぜなら、すでに自分が面倒を見れなくなったという事実があるのに、預けた人も同じことをする可能性には目をつぶって期待するなんて虫が良すぎるからだ。保健所もよくはない。他人の手を汚すことになるからだ。結局、自分で責任を取れ、ということになる(注意して欲しいのだけど、責任など、絶対に取れるものではない。ここでは、もし取れるのなら取る意思を持てるのか?という程度の意味だ)。

ペットを飼うというのは、生き物の命を預かるというのは、本来それぐらい重いことだと思う。ぼくはこの作家の人のような責任の取り方はできないし、かと言って避妊手術を受けさせるようなことも、もうしたくはない。そういうわけで、猫は見るのみに留めることにした。近所の飼い猫や野良猫を、目で愛でるだけだ。

「この作家は動物を飼う資格がない」とか、何を言ってるんだろうと思う。そういうあなたは人を断じる資格をどこで得たというのか? あなたは何の資格があって他人が手を汚して殺めた動物の肉を喰らっているのか? いや、そもそもあなたは生きる資格を誰に与えてもらったのだ?

資格なんているものかよ、と思う。もしくは、そんなものは自分が自分に与えればそれでよいのだ。

どっちがいいとか悪いとかではなく、ただ、この作家を絶対悪とする人と自分は仲良くできないだろうと思う。言いたいのはただそれだけだ。ぼくは子猫を殺したりはしないしできないけれど、相変わらずウシブタトリサカナの肉は食う(だっておいしいからね)。ときどきは、動物たちの命や、自分の代わりにその動物たちを殺してくれた人に感謝をする(ほんとにときどきだけど)。動物は飼えないけど、見るのは好きなので動物園に行く。それで子供に混じってヤギを撫でてきたりするのだ(生き物に触るのはいいよね)。


そんでもってこのエントリはかなり危険なんだった。なぜならここを読んでくれているらしい〈メイドさん〉は、超・動物好き、猫好きだからでした。暑いといっては野良猫の心配をし、雨が降ったといっては野良猫の心配をし、道ばたで死んでいた野良猫をひろいあげて埋めてお墓をつくってあげるような優しい彼女に、このエントリは理解されるのだろうか。されるといいけど、されなかったらそれはそれで、仕方ない。こういう考えを持つ人間であることを偽って付き合っていく(付き合ってないけど)のも心苦しいので。……と思ったけどこれを「受け入れろ」と押し付けるほうが酷いのか? 苦しくても黙って抱えていたほうがよかったのかな。