すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「倫理的に正しいことは本当に正しいのか」

……というような検索wordsがアクセスログに残っていました。それでこの日記をリストアップするとはGoogle様もシャレがキツいよな。まぁせっかくですので、ちょっとお答えしてみたいと思います。


まず、「正しさ」という概念ですが、これは、世界をちいさな「箱」に区切らないと出てこないもの、なんですね。だいたいの人においては、箱のおおきさは、空間的には身の回りや近所〜自分の国ぐらい、時間的には自分の生まれたころ〜死んだすこしあと、ぐらいになっていると思います。風が吹けば桶屋が儲かる、ではないですが、なにかコトが起きたときの影響の連鎖は、追っていけばいつまでもキリがないんです。だから、ある程度のところで区切るしかない。そうすることでやっと、(「箱」のなか限定の)「正しさ」が見えてくる。なにが正しいのか判断ができるようになる。しかし、「箱」の中では直線に見えたものも、箱から飛び出した先をずっと追っていくとじつは曲線の一部であったことがわかったり、並行に見えた面どうしが先へ行くと交わったり、していることも、往々にしてあるのです。(ということでわかるように、強く「正しさ」を主張する人ほど、その人の「箱」はちいさいです)


さて、「倫理的に正しいこと」についてです。それは初耳だ、という人もいるかも知れませんが、倫理というのは常に常に正しいんですね。この問いは「三角形の辺の数は本当に3本なのか」と聞くようなもので、順番が逆なのです。実際には、辺が3本ある図形を三角形と呼ぶことに決めたわけです。同じように、社会が「正しい」と決めたルールのことを倫理と呼ぶのです。だから、同一の倫理観が共有されている範囲が同一の社会であり、「倫理的な正しさ」が通用する「箱」のおおきさと、社会のおおきさは、正確に一致します。倫理観が異なるところは、もう別の社会なのです。(おとなりの国のニュースなどを見てると、そう感じませんか?)

実際には、社会もすこしずつ姿を変えていくため、「倫理的な正しさ」が実情に合わなくなってくることもありえます。たとえば「脳死は人の死か?」なんてのがそうですね。でもこういう場合、いままでと違う判断を支持する人がだんだん増えてくると、あるとき、ひょい、と「正しさ」がそちら側に移動してしまいます。社会の中で多くの人が支持するほうが正しくなってしまうんです。こうして、倫理は常にその正しさを維持していく仕組みになっているんですね。


ここまでお話したことを踏まえれば、最初の問いに答えることができます。「倫理的に正しいことは本当に正しいのか」に対する答えは、Yesです。なぜなら、倫理とは、社会という「箱」の中であらかじめ「正しさ」を保証されたルールだからです。その原理上、間違った倫理というものは存在しないのです。けれど、それでも、「これは本当は正しくないのではないか」と感じるものが倫理のなかに見えてしまうとしたら、そのときあなたは、「倫理的な正しさ」がまさに書き換わろうとするその最前線を見ているのか、または、社会よりももっとおおきな「箱」の存在に目を向けているのです。


加えて言うと、「箱」のおおきさを、空間として宇宙全体、時間の初めから終わりまでに拡大した場合、そこには「正しさ」と呼べるものは、もうなにもありません。「正しさ」というものはいつだって「ある条件下での正しさ」でしかなく、「絶対的な正しさ」と言えるものなど、この世界には存在しないんです。しかし、それでもなお、あなたが「世界にはなにかしら絶対的なもの、規範となるべきものが存在しているはずだ」と感じるのなら、あなたが考えているそれの正体はきっと世界を超えているもの、おそらくは神、なんじゃないかと思いますよ。

どうぞご利用ください。

ダウンロードしたデータをアップロードすることによりデータをインポートする機能についても今後開発を進めてまいりますので、いましばらくお待ちください。


ブクマインポートは危険じゃないのかなー。エクスポート→インポート→インポート→注目エントリ、ってことになりそうな予感。でもぼくが思いつくくらいだから、とっくにはてなはなにか対策を考えてるだろうけど。

未来の携帯電話に必要な機能はもうわかっている

FIFTH EDITION : 衰退は定め、定めは死

現状、ITの発展に伴って、確実に置き換えを食らうであろう製品・サービスってのが幾つかあって、実際、崩壊の兆しは見え始めているのがいくつもある。
本日は、そういう製品・サービスを列挙していくというエントリ。


とのことですが、長いエントリなので、局地的に反応します。携帯端末についてpalさんは、

画面の大きさとキーボードのサイズ的に、メモ帳以下になることは考えにくいので、小ささを競う競争がひと段落した時点で、現状の筆記用具業界のように、使いやすさよりデザインや感性が重要視されるようになるのではないかと思う。


と書かれていますが、ぼくは現在のWILLCOM端末のようなフルキーボードは廃止できると思っています。必要なのはコレ。


ITmedia +D Mobile : “声を出さない”で会話する〜ITX2002

 声には、無声音と有声音がある。有声音は声帯を震わせる音。ノドに手を当てると響く。ささやき声を出してみると、声帯が震えず無声音であることが分かる。
 竹内氏の研究は、この「無声音というヒソヒソ声を有声音化」するものだ。無声音は声帯がなくても発声できるため、「筆談に代わるものとして、手術などで声帯をなくした人にも対応できる」(竹内氏)。
 システムはマイクで撮った無声音をPC上のソフトウェアで有声音に変換するというもの。会場では実際にヘッドセットが用意され、デモンストレーションも行われた。まさに「自分にも聞こえないような小さな声」でしゃべってみたが、しっかりと普通の音声に変換された。


そして、このシステムで拾った無声音を音声認識して文字に変換してしまえばいいのです。そうすれば、現在の普通の携帯電話程度のキー数があれば事足りるでしょう。いまぼくがケータイ族になれないのは、あんなちいさなキーでぷちぷちぷちぷち文章なんて打ってられっか!ってのが主な理由です。思考速度にもぜんぜん追いつけないし。しかし喋る速度で文字が入力されれば、編集機能さえそれなりならキーボード並みかそれ以上の速度で文章が作成できる可能性があります。おまけに無声音でいいならいつでもどこでも仕事中でもブログが(ry