すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

虚構と現実の区別がつきません

さいきん、「感動するってどういうことなんだろう?」って、ずっと考えています。まだ、結論のようなものは出ていないので、そのはなしは、今日はおいておきます。

さてと、タイトルのこと。小中学生ぐらいのこどもがひとを殺しちゃって、“あるゲームやアニメが好きだった”みたいなことになると、評論家ぽいひとたちが出てきて、かならずこういうことを口にします。いまのこどもは虚構(仮想、空想、夢、妄想、バーチャル、そんなもの)と現実の区別がつかないんだ、と。

うん、みんなおもうとおもうんですけど、映画やTVドラマ見て泣くひとって、虚構と現実の区別がついてないですよね。だってそれ、虚構だし? ノンフィクションの映画だって、虚構だし。だから、映画館でクライマックスでもりあがって泣いているひとがとなりにいたら、耳もとでそっとささやいてあげよう。これ、つくりものですから。ゲームでも漫画でもいっしょ。そんなものを見て、わたしたちは泣いたりわらったり怒ったりするんです。

わたしたちは、なにに反応しているんでしょう。ソニー社の犬ロボット。あれのおなかを蹴りあげたりは、できないとおもう。定価が6桁だからということじゃなくて、かわいそうだから。でも、あれはつくりもので、生きてるわけじゃない。RPGのなかの生きてるわけじゃないモンスターなら、いくら殺してもいいのかな? いいえ、そもそも生きてないんだから殺してもいないんだよね。

…ん、でも、わたしたちは、むしろ現実ではあんまり泣かなかったりします。ひとはたんたんと死にます。ドラマみたいにドラマにはならないのが現実です。わたしたちが泣くのはだいたい虚構のなかに限られてる。そういう意味では、区別はついてるのかもしれないなぁと、いますこしおもいました。