すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

Dark, dark ultramarine.

この先にある文章は、いままでここに書き込んだどれよりもハッキリ電波臭い。警告! 思慮深い者は避けて通るべきであり、読み解しうる者は残念ながらお仲間に相違ない。


「自分とは何か」という、だれでも一度は通るだろう青い問いにして哲学の深遠なテーマのひとつ。それについてわたしは答えを持っているので、すこし書いてみよう。

自己紹介をせよ、と言われたとき、あなたは何を話すだろう。まず名前? 年? 学校or会社? 家族構成や住んでいる場所や趣味・特技? そんなところだろうか。あたりまえだけど、こんなものは“わたし”ではなく“わたしの肩書き”にすぎないので、いちいち説明はしない。

では、この体が“わたし”だろうか。腕が1本取れてしまったらわたしではないのだろうか。床に落ちていく髪はいつからわたしではないのだろうか? ヒンズー教では“わたし”の本体をアートマンと呼び、それは心臓のうちにあって芥子粒よりもずっとずっと小さいものだ、とされている。これに倣うわけではないが、腕と体が切断されたら、たぶん“わたし”は体の方に残っているだろう。「体が取れちゃった」という言い方をわたしたちはしない。現代のわたしたちの感覚では、たぶん“わたし”は頭部の奥に存在すると感じるひとが多いのではないだろうか。

いや、身体ではなく、精神が“わたし”だろうか。性格や記憶、ものの感じ方や考え方、そういったものがわたしを構成しているのだろうか。わたしは長い時間をかけていまの性格や記憶を手に入れた(=わたしに成った)のであって、それこそがかけがえのないわたしであり愛おしむべきだ、ということだろうか。

わたしは言う。「違う」と。わたしの体や心は“わたし”ではない。


物語によくある、事故のショックで「なかみ」が入れ替わってしまう話。ああいう話が成立しうるのは、わたしたちが「体がわたしなのではなく、心がわたしなのだ」と感じているからに他ならない。だがほんとうに心がわたしなのか? もしわたしと全く同じ性格・全く同じ記憶をもつ人物(そのうえ見た目から何から何まで一緒だ)が目の前に現れたら、わたしは自分が2人同時に存在するような感覚を味わうだろうか? そうではないだろう、「あいつは誰だ?」となるはずだ。つまり、性格や記憶がわたしなのではなく、“いま、ここに、いる”というこの感覚、これこそが“わたし”なのだ。

わたしは言う。「わたしのXXXX」という言い方で示すことが可能な全てのものは“わたし”そのものではない。わたしの手足や体、わたしの思考回路、わたしの性格、わたしの記憶や経験、そんなものは“わたし”とは何の関係もないただの外部属性であり、いくらでも入れ替え可能なモジュールにすぎない。実はこの文章を書いているのは“満ちル”ではないとしても誰も気づかないだろう。同じように、あなたの親のなかみが昨日から入れ替わっていたとしても、見かけと性格・記憶が同じであり、今までと同じように接してくる限り、あなたはそれを見抜けない。また、あなたと同じ見かけ・性格・記憶の人間が2人現れたら、あなたの親でもどちらが“あなた”であるかわからない。内側にいる“あなた”は「こっちが“わたし”だ」と知っているのに。(もっとも、そう主張しても無駄だが…)


わたしはいま、ここにいる。(他のだれも、いま、ここにはいない)
わたしはいま、ここにいる。(わたしはいま、他のどこにもいない)


身体だけでなく、精神(性格や記憶)も、いずれは移植可能になるだろう。交換不可能な個性は、「いまここ」という時間・場所属性だけだ。“満ちル”はひとつの視点だ。これは詩的な例えではなく、純粋に文字通りの意味だ。二つの人間の頭部が同時に同じ場所を占めることはできないし、一つの人間の頭部が同時に二つの場所に存在することもできない。そういう意味で“わたし”は、いま・この場所から世界を眺めているひとつの視点にすぎず、それが“わたし”と“わたし以外”を区別する唯一のものだ。わたしの「個性」は「いまここにいる」ということの他にはない。まさに色即是空。あとの「わたしのXXXX」と称されるものは全て入れ替え可能であり、それらが変わったからといってわたしが“わたし”でなくなるわけではない。酒を飲んで記憶をなくしてもわたしはわたし。クスリを飲んで性格が変わってもあなたはあなた。もしかしたらあなたは毎朝、ほかの人間のなかで目覚めているのかもしれない。記憶が残っていれば入れ替わりドラマだが、記憶まで変わっていたら、入れ替わったことにさえ気づかない。あなたはその人間の記憶と性格を使って、その人間そのものとして行動するだろう。しかし「わたしがいる」という感覚だけは継続し、消えることはない。


「自分探し」なんてやった結果、辿り着いたのはこんな風景だった(しかもわたしは、「自分とは何かを考えること」を「自分を追いつめる作業」と内的に呼んでいた、苦笑)。“わたし”はいつの間にか存在し、いつ消えるかもわからない、宇宙の中のひとつの点。デカルトが「我思う故に我在り」と言ったのと同じように、この考えこそが“満ちル”の原点にあるもので、決して思考実験でもなんでもなく、ここを足場として立ってわたしは生きている。もっとも、こんな考え方をムキ出しにしていては、この人間世界で生きていくのもおぼつかない。入社試験の面接であなたはどんな人かと聞かれたとき「わたしは宇宙の中の視点で…」とやったら、ただ試験に落ちるだけではすまないだろう。だから、普段はわたしは人間の振りをしている。周りの人間に倣い、こういう時はこうするんだろうな、というふうに振る舞う。この世で生き延びるにはそれは必要だ。別に生き延びなくてはいけない理由もないのだが、せっかくいまここにいるのだし、なんとなくこの世界は好きなのだ。

うーん、こんな適応係数高そうなことを書いてて平気なのかなぁ(あまり高いとXクラス送り)。


こんな世界観のもとに生きている“満ちル”のなかのひとは、それなりに大変だ。なかのひとはルールを守ってプレイするゲームとして、世界を生きている。それが「人間世界」を享受し楽しむ術だから。ときどき、誰かが満ちルの文章を「面白い」って誉めてくれたりする。そんなとき、ゲームに熱中してる満ちルはキャラになりきっているので、ちゃんと「嬉しい」と感じる。けれど醒めているときは、なんだか切ないような申し訳ないような気持ちになる。誉めてもらってるのは、ゲームをやるために配られたトランプの手札であって、満ちルは何かの努力をしてそれらを手に入れたわけでないからだ。わたしは点なのになぁ、プレイヤーなのになぁ、そんなのわたしじゃないのになぁ、と思う。

ことに、この世界観は恋愛ゲームを進める上では役に立たないどころか邪魔になる。(まれに)誰かが満ちルのこことここがいい、好きだ、と言う。満ちルは、そんなのわたしじゃないのになぁ、と思う。そして「こことここがいい人がいたら、別にうちじゃなくても好きになるんでしょ」と満ちルはあろうことか言ってしまう。誰かは、怒ったり、泣いたりする。逆に、いいなと思う人がいても、もしも同じ容姿性格記憶を持つ人が他にもいたら「なかのひと」が誰であろうが満ちルは関係なく好きになるだろうなと考えてしまうと(そしてそれは事実)、好きだと告げるのさえはばかられる。満ちルはたぶん、自分と同じ世界観を共有できる人間としか恋愛ゲームを成立させられないのだろう。それは“わたし”と“あなた”が“いまここ”で出会う状況が何よりもありえないほどの奇跡であるときちんと認識できていて、なおかつそれを自分の言葉で伝えられるような「個」である必要がある。そうでなければ、満ちルは相手を騙しているという感覚に囚われるからだ。いなさそうだそんな相手。

頭の中がこんなになっていても、わたしの外部インタフェースは他の人間とは大きく変わらないので、檻の中に入れられることもなく、病院に行く必要もなくなんとかやっていけている。わたしはただの視点ではあるけれど、たまたまいまは人間の形をしたものの中にいるので、人間であるかのように演じ振る舞う。両耳の間、目の奥から、時が至るまで世界を見ているひとつの点。その時になればこの「点」は消失する。世界はわたしが存在する前、存在した間と同じように、点のひとつがなくなったあとでも何ら変わりなく在り続けるだろう。


「わたしは視点にすぎず、ただ世界を見るためだけに存在する」 これがわたしの自己像だ。あなたが良いと言ってくれるわたしの部分・特性は、全てが全てペルソナだというのが、醒めているときの、だが真の、わたしの認識だ。これは、気づかぬ方がうまくやっていける、たちの悪い罠。何が書かれているのかわからなかった人は、どうぞそのままで。わかってしまった人は、気づかないふりをしてゲームを続けよう。