すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

オトモダチ ニ ナッテクダサイ

世間ではチョコレートをあげたりもらったりする日。どれだけ、そこから遠いところに住んでいるか、ちょっと書いてみましょうか。


会社では就業時間中しか他の人と話すことはない。昼食後は本を読んでいるか寝ているか。終業後に誰かと飲みに行ったりすることはない。駅までの道も1人で歩く。同期と連絡を取ることはない。以前一緒に仕事をした人(同期先輩後輩他社含む)で、今も付き合いがある人はいない。

実家と最後に話したのは、携帯電話の履歴によると去年の11月末。今年はまだ話をしていない。実家にこちらから電話をすることはない。向こうからの電話は留守電に任せる。弟と最後に会ったのは数年前の彼の結婚式で、その後に話をしたことはない。住所も連絡先も知らない。

「リアルの知り合い」というものはいない。学校時代の友人で今も付き合いがある人はいない。社会人になってから知り合った人で今も付き合いがある人はいない。ラグナロクオンラインを始める以前のネットの知り合いで、今も付き合いがある人はいない。去年、休日に人と会ったのは2回だけ(linさんとフォノさん)。他の日は出かけても1人。


───こんなでも平気。


たぶん、深海魚みたいに、少ない光でも生きていけるように適応したんだと思う。コンビニの店員の「ありがとうございました」や、病院の「お大事に」、朝の駅員の「おはようございます」や退社時の守衛さんの「お疲れ様でした」、そういった中に含まれるほんのわずかの“ほんとう”だけを糧に生き長らえているような気がする。


「リアル>ネット」という物語は信じるわけにはいかない。コミュニケーションの手段が限定されれば、そのクォリティも落ちるという見方に与することはできない。それは例えば、生まれながらあるいは事故や病気によって視覚や聴覚を失っている人、身体が不自由とか“ひきこもり”で家から出られない人、人里離れた場所に住んでいて人と会うこともかなわない人、そういう人たちは、深く他人とつながれない、と言っているように聞こえるからだ。(たとえ、ほんとうは、そうなのだとしても、その立場から行動することは、したくない)

でもこういったことはおそらく、ただのわたしの願望だった。願望を“閉ざされた”人たちに仮託していただけ。うまくつながれないでいて、それをどうにかしたいと思っているのはわたしなのです。誰かの気持ちが紆余曲折の末誰かに通じた、というストーリーで、ちゃんと感動して涙も流す。いくらコミュニケーション不全だとは言え、忘れてしまっているわけでも、欲していないわけでもないんだと。

ああ、実際、知らない同士で自殺する人たちのほうがマシと思う。なんで、集まれる? そんな簡単に「一緒に練炭の煙を吸うほど」の仲になれるんなら、イキテイケンジャナイノ? そういったことすら、眩しく見えるのですよ。