すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

機械は心を持ちうるか?

永井均さんの「<子ども>のための哲学」に、“哲学する”ことは自分なりの上げ底を作る作業だ、みたいな表現がでてくる。他人が問題にしないようなことを疑問に感じてしまったとき、人は哲学によってなんとかその穴を埋めようとする。で、考えて考えて問題が解消(=上げ底作り完了)したときに、やっと「普通の人」として他人に並ぶことができる、と。


タイトルの件について、上げ底を作り終わった。


問い 「機械は心を持ちうるか?」

短い答え 「どうでもいい」

やや長い答え 「そもそも“心”とはなんであるかの定義自体があいまいであり、“心”の有無を客観的に判断する方法もない以上、問いの立て方がまちがっていたとしかいえない」

補足1 

ただし。問題はそこにはない。仮に、人と同じような反応をするロボットがあったとする。そうしたとき、わたしは人と接するように彼または彼女と接すると思われる。彼に対してひどいことを言った時「なぜそんなことを言うのか?」と彼が言い、悲しそうな表情をすれば、わたしは、なんてことを言ってしまったのかという気持ちになるだろう。彼女をほめることを言い、彼女が嬉しそうな表情をして「ありがとう」と言うならば、わたしはさらに彼女を喜ばせるような言葉を探すにちがいない。

この時、彼/彼女がロボットであるとあらかじめ知らされていても、わたしの反応・態度はおそらく変わらない。どころか、彼/彼女の口から「わたしには心がありません」という発言があっても、やはり変わらないと思う。ここにおいて心の有無はまったく関係がない。人のように振る舞うものに対しては人のように接することになるだろう。意識してそう接するのではなく、自然に、自動的に、そう接せざるを得ないからそう接する、というふうになるはずだ。

補足2

では。現実問題として機械はそのレベルに到達できるだろうか。わたしは、可能と思う。もしわたし(いまこの文章を書いている“満ちル”)について、あなた(いまこの文章を読んでいる“あなた”)が「心がある」と考えるなら、機械もわたし程度まではいくと思う。ここにあるのは全てデジタルデータであり、コンピュータの演算結果としてアウトプット可能な情報だからだ(実際、この文はわたしのPCのPentium4をいちどは通ってるわけで、いま現在でも「演算結果」であることには違いない!)。それが簡単か難しいかはともかく、わたしが出力するものと機械が出力する(かもしれない)ものに、本質的な差異はない、ということが重要なのだ。そして、可能なら、いつかそうなる。