すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

亜光速で離脱せよ

ここ数日、人権擁護法やら911やらの世事にかまけておりましたが、まぁそういったものは他のblogを見ていただくほうがいいかなっていうか、誰もわたしにそんなの期待してないですよね。そろそろ当blog本来の仕事であるところの、世界に向けて電波をゆんゆん発信する事業のほうに戻りたいと思います。


永井均氏の著作をちかごろ多く読んでいます。『転校生とブラック・ジャック』に下記のような文章があります。いや、永井さんはずっと「わたしとは何か?」について考えてらっしゃる方なので、他の本にも類した表現は数多いのですが。(ていうかこの本、高かったんだ……アマゾンで買うと気づかないなぁ)

世界には人間がたくさんいたし、いまもたくさんいる。だが「ぼくである」という性質を持っているのは、この人間だけである。他の人もそれぞれに「ぼく(私)である」という性質を持っているだろうが、それは彼らもみな自己意識を持って、自分を「ぼく(私)」と呼ぶ、ということでしかない。彼らはやはり他の人である。他の人たちがそれぞれ持つ「ぼく(私)である」という性質とはまったくちがう、現にぼくであるという性質は何に由来するのか。その性質を持った人間が一人だけ存在するとはどういうことなのか。

わたし(満ちル)もこの問題についてはずーっと考えていたし、今も考えてます。なんで「これ」が「わたし」なのか? 「あれ」が「わたし」ではないのか? この目が見るものが見え、あの目が見るものが見えず、この体が殴られれば痛いがあの体が殴られても痛くないのはなぜか?

逆から考えることにしました。「知覚が及び、意志が通るところのものが<わたし>」なのだ。「わたし」には「これ」しかわからない、ではなく、「これ」で言える範囲のものを「わたし」と呼んでいるのだ。

さて、赤ん坊AとBを用意してください(またかよ……)。産まれたばかりの2人に手術を施します。脳に送受信機を埋め込み、2つの脳を接続します。赤ん坊Aの脳に赤ん坊Bの身体の入出力情報をつなぐようにします。Bの脳にもAの身体のI/Oをつなぎます。ただし、AとBを入れ替えるわけではありません。元の身体へのI/Oの他に、もう1体分の情報を入れるのです。赤ん坊Aの体をつねれば、AとBの両方の脳が「痛い」と思い、Aの脳はAとB両方の視覚を持ち、Aの脳はAの右手を動かすこともBの左手を動かすこともできる、Bも同様、という感じです。(人間の脳は90%以上は未使用であると言われてますから、2人分の身体情報くらい余裕で処理できるはずです)

この生き物が口を利けるまでに成長したとき、そこにはおそらく1人分の自我しかないと思います。

多分そうなる、というなんか確信めいたものを感じるのです。「知覚の及ぶ範囲がわたし」という満ちルの考えが正しければそうなるはず。うーん、いまのところ、なんでそうなるのかうまく語れないので、ちっとも哲学的じゃないんですが。ただなんとなく、現在の世界では「わたし」と、人間1人分の身体が、たまたま一致してるだけなんじゃないかなぁって思えるんです。それ(「わたし」の範囲)は今後、『攻殻機動隊』みたいな世の中になっていったら、拡大したり縮小したりできるんじゃないかなぁ。


するとですね、こう思えてくる。例ではダイレクトに人と人をつないだけど、ほんとうに他人(または他の生物や無生物)に対し深く共感できる能力を持つ人は、こんなふうにつないでみせる必要もないのではないか。他人が悲しそうにしていたら「わたし」も現に悲しいのではないか。植物の気持ちや石の気持ちが現にわかるのではないか。

というのをぐんぐん拡大してってついにわたしと宇宙が一体化する、というのが宗教でいうところの「悟り」なんじゃないの?と思う(そんなような表現をしている宗教者はいっぱいいる)。つまり“わたし”は世界にひとつしかなかったんだ、と、端的に気づく経験なんじゃないかなー。悟ったことはないので想像ですが。


あー、なんか今日は飛ばしすぎ? すみません(笑)。サイト名を『足立電波塔』にでもしたほうがいいかしら? 


『マリア様がみてる』の「白き花びら」で、栞と温室にいる聖(栞激ラブ)が、

なぜ、私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう。

どうして、二人は同化して一つの生命体になれないのだろう。

と思うシーンがあります。さいきんやっと(「わたしとは何か?」を考え続けた副作用で)この時の聖が理解できるような気がしてきました。いや全然違う!って今野先生に言われたら悲しいですが(笑)。