すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

痛い人

人の痛みがわからない人なんていない。「通り魔に家族を殺された人」は「悔しい」だろう。地震で家を失った人は悲しいだろう。ほらほら、わたしにもわかりますよー?

「痛み」はふつう自分に起きるものだから“私”は省略されている。「頭が痛い」って言えばわたしの頭が痛いのだ。


いつもAとかBとかなので、たまには友人Yにでも登場してもらいましょう(AやBがYになるだけだけど…)。わたしが指を切った場合、「指が痛い」って言います。で、ここでYの痛覚をダイレクトにわたしの脳につないでみる。そこでもしYが指を切ったら? 「Yの指が痛いのがわかる」とは言わないですよね。日本語としてやや無理があるけど、「つっ、Yの指が痛いっ」って言うと思う。「Yの指が痛いのがわかる」って言うとしたら、Yが指を切ったらわたしの脳内でLEDが点滅するとかブザーが鳴るとかの場合でしょう。

「人の痛みがわかる人になれ」も、ほんとはこんなふうに、人の痛みを自分の痛みとして捉えられる人になれ、って言いたかったんじゃないかと思うんですが、解釈あってるかなぁ? だけどせめて「人の痛みが感じられる人になれ」にでもすればいいのに。もっと無理して「人の痛みが痛い人」とか「人が痛い人」なんてどうだろ。だめですか(笑)。


で、「人の痛みが自分の痛みのように感じられる人」になれって言われちゃうんだけど、べつに「“あの人、痛いだろうな”と単にわかる人」でもいいんじゃないかなぁ。共感能力がとても高くって、人の痛みをまさに自分の痛みとして感じてしまう人。それは「すごいな」「人としてステキだな」って思うけど、見方によっては、ほんとうに痛いから対処してるだけ、でもある。熱いものに触って反射で手を引っ込めるような。人の痛みを直接は感じないけど、でも「おそらく痛いはずだ」と想像して手をさしのべるほうが、なんか人間の行動としてはより上位にあるような気がするんですよね。上位だから高貴ってわけでもないですけど。どっちも、いいと思いますよ。

満ちルさんは「痛そうだな〓」と思うだけの人なので、「人の痛みがわからない人」と呼ばれるべきではない。単に「道徳心に欠ける人」とか「冷たい人」というのが正解でしょうね。