すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

じんせいにいみはあるよ。

以前すこしだけ触れた本について、再度。

人生に意味はあるか (講談社現代新書)

人生に意味はあるか (講談社現代新書)


著者の諸富祥彦(もろとみよしひこ)さんは心理カウンセラーをやってらっしゃるそうです。この本の一章で、2人のクライアントの言葉を紹介されてます。

「人生ってさぁ、ただただ、つまらないこと、つらいこと、面倒くさいことのくり返しじゃない? ……ただ空虚……ただただ空虚……よくみんな、ごまかしごまかし生きていけるねぇ。
人生はこんなにつらくて退屈なのに、いったいなぜ、何のために生き続けていかかなくてはいけないの?
先生はどうなの? 本で読んだけど、昔、死のうとしたんでしょ。どうして死ななかったの。今、死よりも生を選んでいる理由は何? つまり、どうしてあなたは死なないの?」


20代後半の女性、ひとみさん(仮名)は、カウンセリングの最中にもリストカットをし始めるそうです(ぉぃぉぃ)。

「生きていくことに、意味があるだなんて言われたら、困ります。もし、この人生に意味があるとしたら……私のこれまでの人生は何だったんだって思うんです。子どもの頃は両親に振り回され、結婚してからは夫に虐げられ続けた、私の人生。生きていると言えるかどうかも怪しい、私の人生……。
人間なんて結局、モノにすぎない。心だって脳という物質が作り出した幻だ。すべての人間は、みんな死んで、灰になるだけ。そう思えると、『そうか、人生なんて結局無意味。それでいいんだ』とすごく気が楽になる、落ちついてくるんですけど、先生みたいに、人生には意味があるだなんて書かれると、私の人生が、あまりにも惨めで、惨めで……」


40代半ばの女性、和美さん(仮名)は、「先生の言うことは絶対に間違っている!」ということを認めさせようと、遠方からはるばるやってきて、全身をブルブル震わせながらこう語ったそうです。

どうですかこれ。「うわ、キッツい。無理。カウンセラーとか絶対無理」、とわたしは思いました。諸富先生はもちろん、こういった方達にもほんとうに誠実な対応をされていきます。そうか、そうやって入っていくのかー、と、感心させられました。


諸富先生はこの本で、生きる意味が感じられない人を3タイプに分けています。

  1. 特に悩みがあるわけではないが、漠然とした空虚感や物足りなさ、むなしさを感じている人
  2. 「生きる意味」を懸命に求め続けているのだけれど、いつになってもそれが得られない人
  3. 人生に絶望し、こんな人生に意味はないと感じている人

さて。「先生」と呼ばれるような人は、立場上言えないこともあります。「善い人」は世の中に存在しなくてはならず、その役割はわたしにもわかります。なので、わたしが、そっちじゃないほうから言ってみます。上の3タイプは、わたしに言わせるとこうなります。

  1. ヌルい人
  2. “生きる意味”ジャンキー
  3. 堕ちきってない人

「ヌルい人」は、生き方がヌルいのです。「わかったふうな人」「ちゃんとやったことがない人」と言ってもいい。あれをちょっとやって、これをちょっとやって、みな適当にやって、ああわかった、こんなもんか、と世界の1000分の3くらいを見て、悟ったふうに語る。ひとみさん(仮名)はこのタイプですね。こういう人はどうすればいいんだろう。うーん。言葉の通じない外国の首都の大通りの真ん中に、無一文で放り出してきましょうか。

「“生きる意味”ジャンキー」。このタイプは、じつは過去に何度か「生きる意味」を感じた経験があるんです。その快感に目覚めて、もっともっと、強く強く、と求めるようになってしまう。こういう人は、放置しておいていいんです。なぜかというと、求めに求めてやっと得られたときのほうが、快感がより大きいからです。それでさらに求めてしまうわけですが、まぁ中毒だから仕方ない。こういう人たちが世の中をよくしたりすることがままあります。

「堕ちきってない人」は、不幸には違いないんですが、限界まで不幸というわけではないのです。和美さん(仮名)はこのタイプ。じつはまだ余裕がある。ほんとうに不幸な人は、その日を生き延びるのに精一杯で、生きる意味がどうとか考えているヒマはないのです。「夫に虐げられ」なんて、昼ドラにもならない凡庸な不幸じゃないですか。なんで逃げませんか?と。


タイプ3の人には、『夜と霧』のビクトール・フランクルの話。フランクルは捕虜としてアウシュビッツ収容所にいた経験があります。収容所に捕らわれてもう希望をなくし、自殺を考えていた囚人仲間に、なお生きる意味を説いて聞かせ、考えを改めさせます。さてタイプ3の人、あなたの不幸はフランクルに比べどれほどのものか? 「いや、それはたしかに大変だったのかも知れないけど、わたしの不幸はわたしの不幸であって、それと比べることはできない」と、たぶんこういうことを言うでしょう。

そうなんです。ここに罠がある。「あなたの不幸」はアナタの不幸なわけです。「人生には意味がない」、こう語る人。それは「“あなたの”人生には意味がない」のです。こりゃちょっとキツいか。「あなたの人生はうまくいってない」、このくらいがいいですか。まぁともかくそういうわけ。自分ひとり生きる意味が感じられないからって、人類を道連れにするな、と。うまくいってないことを一度認めてしまうと、楽になって道が開けたりするわけなんですけどねぇ。

諸富先生も本の中で書いてらっしゃいますが、「うまくいっている人」は、人生は意味があるなぁ、などと毎晩寝る前に考えているわけではないのです。そもそも、生きる意味がどうとか気にしてない。「あなたの生きる意味は?」と問えば答えは引き出せますが、普段は頭にありません。人生の意味はなんだろうとか考え出すのは、あまりうまくいってなくて、かつ暇な人です。

わたし個人はどうなんだろう? うーん? タイプ2に近い気もするけど、とっくに「意味あり」な人だからなぁ。わたしが「生きる意味」を考えるのは、単に娯楽なんです。それはいつでもどこでも遊べるパズルのようなもの。暇なときに取り出して、ちょいちょいといじって、面白い形になったなぁ、とか眺めてみて、またポケットにしまう。そういう感じです。


この本ではいろんな「生きる意味」を紹介しています。中には、著者の立場からしたら紹介するのが不本意なようなものまである。でもおそらく、それが誰かの役にたつなら、ということで取り上げられているのだと思う。そして、「これが生きる意味だ」と断言することは最後までなく、あなたにとっての生きる意味を見つけなくてはならないし、それはとてもとても時間と勇気と真剣さが必要な作業です、とちゃんと言われてます。こういった意味で、この本はとても誠実であり、信頼していい本です。続刊が出るようです。わたしは買うでしょう。

ただね? 「どんな人生にも意味はある」。そう、これは真実に違いない。でも「善い人」が語れるのはここまで。わたしはその先まで行きたい。どんな人生にも意味はあるなら、加害者が被害者に向かって「わたしの人生には意味がある」と言い、被害者が納得するような言葉が存在するはずなのです(逆はありますよ。ルサンチマンの言葉として)。それはいったいどんな言葉なのか? わたしはまぁ、なんだか誰かに謝りたくなってしまう気分もあるのだけど、パズルの一環として、興味本位で、でも自分を偽ることもなく、そういうこともちゃんと考えていきたいと思ってます。