すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

でも批評をやりたいわけでもないわけ

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

僕が批評家になったわけ (ことばのために)


加藤典洋さんの本『言語表現法講義 (岩波テキストブックス)』は以前もなんどかこのblogで取り上げています。文章を書く、という行為に意識的になろうとする人には、ぜひおすすめしたい、他に見たことのないタイプの本です。その加藤さんの新刊が平積みだったので買いました。この表紙、アマゾンの写真では、本全面をおおっているカバーが外れています。ほんとはこんなです。著者名のマルの部分は切り抜かれていて、下の青い紙が見えているんです。素敵な装丁です。

表紙のこの言葉につられました(ふつう、こういうのは、オビに書くんだけど、この本はカバーにじかに書いてある)。

批評が何か、そんなことは知らない。しかしお前にとっては、批評とは、本を1冊も読んでなくても、100冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に、100冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の100冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ。だからすばらしい。


おお、この本さえあれば、100のコメントやら言及記事やらを読んでエントリを書いた相手と、ネット上でサシの勝負ができますよ! とか思ったんだけどそういう本じゃないんだな。そんなハウツーは載ってない。言われてるのはつまりこういうこと。加藤さんはいちど、「ものすごい数の“思想家の本”の引用やら言及だらけ」の本の批評を書こうとして、怖じ気づいたことがある。やれる、と思って始めたのだけど、不安になった。ここにあげられた本のほとんどを知らずに書評を書くなんて、自分のやってることは間違ってるのではないか、無理なのではないか、勝負にならないのではないか。しかし悩んで考えて、上の引用文のような境地に辿りついて楽になった(中に出てくる「お前」は加藤さん自身のことです)。ご立派なバックグラウンドなんて関係ない、「そこに書かれているものから読み取れるだけの意味」と「自分の価値観」の勝負なのだ。「それについてよく知らない」という立場から考え始められるし、そこからごまかさずに一歩一歩考えを進めるほかない(そうでなければ、戦地に実際にいた人以外、戦争について書けなくなってしまうではないか)。

というような本。「そのかわり、勇気はいりますよ」というような本です。というか、「僕が批評家になったわけ」も、「批評のやりかた」も、あまり書かれてなくて、こんなのが批評だと思う、と、およそ批評っぽくないいろいろが引用されていて、なるほどこれでいいのかー、と感得させられるような本でした。『言語表現法講義』の副読本にいいんじゃないかと思います(副読本とか失礼な言い草ですが)。


ところでこの本は『ことばのために』ってシリーズのうちの1冊で、他の4冊は荒川洋治さん、関川夏央さん、高橋源一郎さん、平田オリザさんが書いてます(まだ出てないのもあり。他、5人による別冊が1つ)。これの、折り込みチラシ(っていうのか、なんか本に挟まってる広告みたいなヤツ)に、みなさんの写真が載ってるんですが、はじめて加藤典洋さんのおカオを拝見しました。……立花隆系?? いやそんな似てないか、髪型だけか。しかし荒川洋治さんは前から誰かに似てるよなー似てるよなー、と感じてたんだけど、ついにわかりました。えーと少林サッカーに出てくる、ほらあの、鉄頭のひと。ってここで笑ってくれる人はいなさそうだなぁ。