すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

このテーマは好きなんで死ぬまでやります。

「死んだら終わり。だから怖い」って聞くと(おもに中島義道さんがそう言ってるのを聞くと)、「??」と思う。むかしは自分も死ぬのが怖かったはずなのに。ときどきいつの間にか、うっかり川を渡ってしまっていて、いったいどうやって渡ってきたんだっけ?とさっぱり思い出せないのだ。

いまのぼくは「死んだら終わり。だから怖くない」というひとである。死んだら終わりなんである。だから怖くないんである。当然だ。なんでそんなのが怖い人が多いんだろう。むー? まったくピンとこない。むかしの自分が不思議すぎる。

ここで考えられるのはふたつ。ひとつは「怖い」「怖くない」のどちらにもつながる以上、「死んだら終わり」は怖さとは関係ないってことだ。怖いってひとは、たとえば、「死」自体じゃなくて、それにつきまとういろいろ、痛みや苦しみや別れや後悔や「忘れられてしまうこと」が怖いんじゃないのか? でも、これらは生きてても起きるんだけどね。

もうひとつは「死んだら終わり」と「だから」の間に、ものすごーい量の言葉が省略されているのでは?ということ。「怖い陣営」も「怖くない陣営」も、怖かったり怖くなかったりをあんまり当たり前と思ってて、わざわざ語る必要もないと感じているんじゃないか? じゃ、ぼくは「なんで“だから怖くない”なのか」語ってみる必要があるのかなぁ。

でも「死んだら終わり」は「だから、自分が生きてる間にいい思いができればいい」につながりやすいのはたしか。死んだら終わりであることを否定しないまま、それでも他人のことを思いつつ振る舞わなくてはいけない、ということは言えるんだろうか? とくに、「国会にいるおじいさんたち」にもたやすく理解できるような言葉で、それを言えるんだろうか? なんてことを、さいきん時々考えてます。