すべての夢のたび。

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そもそも実在するとはなにか

東京猫の散歩と昼寝 より じゃ、そろそろ、まとめに入ろう(4)


tokyocatさんは、「数学は普遍と考える派」です(よね?)。わたしは、「数学は普遍でも普遍でなくても構わないが、普遍でない方が楽しそうなのでそっちを取る派」です。とりあえずの反対派として、いくつかネタを挙げてみます。


数は実在するのか? 2や3.3や1.5や-5は実在するのか? するのかもしれない。しかし、15,747,724,136,275,002,577,605,653,961,181,555,468,044,717,914,527,116,709,366,231,425,076,185,631,031,296は実在するのだろうか? するのかもしれないが、では15,747…(略)…031,297は実在するのか。15,747…(略)…031,298はどうか? 全ての実数は実在するのか? 宇宙の初めから終わりまで、知的生命体にただの一度も顧みられることもない、無数の無理数たちは実在するのか? 虚数は実在(虚在?)するのか? などなどと考えると、数が実在するというより、数に関する法則が実在する、と捉えた方がいいような気がしてきます。

しかし、数学者の中にも、数学は心の中にしか存在しない、と考える「形式主義」があります。交換法則や結合法則が成り立たないような数学は、果たして「発見」なのか「発明」なのか? これが「つくりもの」だとしたら、どこまでが「実在する数学」なのか?

われわれが適応への圧力に応じて生理的にも心理的にも今あるようなものになるとすれば、多くの点でわれわれは実際に存在しているフィジカルな世界の正確な鏡になっていなければならない。人間の耳は音が実際に存在することに応じて進化し、目は光が存在することに応じて進化したというように。この見方に従えば、われわれの生得的な思考のカテゴリーが普遍的であることは、自然法則が普遍的であることと関連づけられる。


宇宙に法則はあるのか』からの一節とのことですが、これに関しても疑問があります。初めて眼鏡を掛けたとき、世界が歪みました。定規で線を引いても直線に見えず、何度も弾き直した経験があります。しかし、数日で、曲がった線は直線に見えるようになり、逆に、眼鏡を外すと天井が反り返って見え、気分が悪くなりました。視野の左右や上下を反転させる眼鏡を掛けて生活するという実験もあります。こういう眼鏡を付けたまま長期間過ごすと、やがて脳が慣れて、眼鏡なしと同じイメージがちゃんと見えるようになるそうです。そして眼鏡を外すと視野が反転して見えてしまい、また慣れるのに日数を要するとのこと。こういったことから考えられるのは、わたしたちは、思ったほど「世界のそのまま」を見ているのではないのではないか?という可能性です。むしろ「こうであるはず」という、見たいものを見ている。なにか、脳の中に「世界からの情報を正規化する」回路のようなものが存在するのではないでしょうか?


数学は人間の脳内の産物だ、と考えたいわたしも、「では人間が絶滅したら数学はなくなるのか?」と問われると、なんか、それはないような気がしてきます。数学の教科書を“超合金”でできたタイムカプセルに入れておけばよいのではないか?(冗談です) しかし、初めがあって終わりがない、そんな「永遠の半分」みたいなものも奇妙です。ここでちょっと考えました。わたしたちは4次元の時空間に住んでいると考えているけれど、「時間」はちょっと性質が異なる。一方向にしか動くことができず、一定の速度で動き続けるので止まれず、ひとつの場所しか見ることができない。5.1chサラウンドじゃないけど、4次元じゃなくて3.2次元くらいしかないんじゃないの?という気がしてきます。もし、時間の1次元をきちんと見られる存在(時間の端から端まで、全てを見渡せる存在)があったとすれば、彼は「数学は実在する」と言うのではないか?

ここで『万物理論 (創元SF文庫)』を思い出しました。軽くネタバレですが、物理学者が「大統一理論」を考えつき、その考えついた時空の一点から、それによって構築される過去と未来を含めた全宇宙が展開する、という感じです(その「大統一理論を物理学者が考えつく」という出来事も、その理論自身が包含している)。こうなのかもしれない。数学は人間が作ったのだけど、作ったことによって、「初めからあった」ということになったのかもしれない。


などとまた妄想が拡がりとりとめもなく。ちなみに「15,747…(略)…031,296」は、エディントンという科学者の想像した「宇宙内の陽子の数」です(電子も同数とか)。根拠不明。