すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

セカイ系であるとはどのようなことか

ふつうのひとは「きみとぼく←→社会←→世界」というふうに世界認識をしている、らしいです。ぼくの場合は「ぼく←→世界」が基本になっている、と思う。世界の中に存在する各オブジェクトを、わりとフラットに見ています。「社会」にリアリティを感じません。そして、ぼくが「世界」という場合は、通常、ぼくの皮膚の外側から宇宙の果てまでの全領域を指しています。(世界はぼくを含んだり含まなかったり、体に痛みがあるときは体も世界側だったりします) ぼくがなにか行動をする、と、世界が反応する。それを「観る」ことがぼくのすることです。

こういうことをきちんと意識できるようになったのは、わりと最近のことです。それまでは、いわゆる「自分探し」をいろいろやりました。アムネスティやグリーンピースに入ってみたり(派手な活動はせず、あちこちに抗議のハガキを書いたり、軽いデモに出たくらいですが)、ボランティアをやってみたり、宗教に入ってみたり(キリスト教と某新興宗教に同時に。オウムと統一教会も冷やかしで見てきた)、動物愛護団体に入ったり、インド行ったり、自己啓発セミナーに行ったり、結婚してみたり、骨髄移植のドナーをしてみたり。

で、まぁ、そういったことをいろいろやっても、なんだかピンとこない。すぐ飽きる(というと語弊があるものもありますが)。それはなぜか?と考えた結果、ふっと理解できてしまいました。「あ、そーか。ようするに他人に関心がないんだ」と。


今年のコミックマーケット(8/14)で、漫画家のMATSUDA98さんにお会いしました。ってもご挨拶させていただいただけですけれど。で、その前に休日に人に会ったのはいつかというと、4/24の池袋のコミックレヴォリューション、やっぱりMATSUDA98さんだったりします。今年は、あと実家に1度帰ってる。別居中の奥さんに1回会った。8月を終えて、名前のある他人に休日に会ったのは、4回です。去年も似たようなもの。一昨年も。その前は、もうちょっと人に会っていたような気もしますが(といっても、ふつうの人よりは圧倒的に少ないと想像される)。あとは、休みの日に接触するのは、名前のない他人だけ。コンビニや書店やカフェの店員とか、そういう人たちだけです。基本的には休日(というか会社以外)では単独行動です。

会社は、完全に、「この世界で生きていくために必要なお金を得るところ」と認識しています。会社でお金以外のなにかを得ようとは、まったく考えていません。仕事をするときはふつうの人として振る舞います。けれど、休憩時間に誰かと喋ったりはしないし、昼食も帰りもひとりだし、飲み会にも出ないし、ちょっと変わった人として認知されているのだろうとは思います。会社で仕事中はちゃんと喋ります。でも、会社以外では音声を発する場面はほとんどないですね(そのせいか、喉が結構弱いです)。


よく「人はひとりでは生きてはいけない」というようなことが言われますが、ぼくは、物理的には別として、精神的にはひとりで生きていけます。たぶん。それを強さというのかというと違うかもしれないけど、そういうものがある。このblogを読んでる人で、blogを始める前のぼくを知っている人は、数人のはず。それも、某MMORPGで知り合った人だけで、そのさらに以前(3年以上前)になると、もういないはずです。そもそもが少ない知り合いですが、そのうえハンドルも変わったし、知らせることもなかったから。ネット外で知り合った人で、現在も付き合いのある人はいません。

ひとりだけ、君は友人だ、と言っても確実に肯定してくれるだろう人がいて、まぁ時々このblogでも名前が出てくる友人Yですが、彼女(女性らしい)相手には、リミッターなしで会話をしています。このblogは、読んでる人に通じるように、翻訳したり補完したり、周波数や出力を調整したりして書いてる部分がありますが、そういうのが必要ない、めずらしい人です。楽に濃密なコミュニケーションができます。あと、この世界で生きていく戦略上、口にしてはならない言葉もありますが、彼女相手にはそういうのもないですし。

でも、別に彼女に精神的に依存していたりはしない。いちばん近い位置にいる彼女を含めて、血縁や知り合いも含めて、この世界に、「この人が死んだら悲しい」という人は、ぼくにはひとりも存在しません。「死んだら困る」という人もいません。「死んだら残念だ」という人はいます(もう話ができないとか、作品が見れない、という意味で)。死に方も関係ありません。自殺だろうが殺されたのであろうが病死だろうが、差はないと思います。(ひとりだけ、自殺で死なれた場合にぼくが困る人がいます。別居中の奥さんです。その場合は、さすがに周囲からとやかく言われるでしょうから)


社会と関わり合おう、という気はありません(実感のないものに、関わり合おうというのも困難ですけれど)。離婚が成立したら、再び結婚することはないでしょう。子供を作る必要性もまったく感じませんし。自分の持てる時間はすべて自分のために使うつもりです。自分が面白いと思えることのために。それが、たまたま社会になんか役立つ?ことであれば、不図、してしまうかもしれないですが。別に人間が嫌いなわけではないです。むしろ好きです。人がいろいろなことをするのを「観る」のは好き。ただ、特定の人間には関心がない、ということです。

今後しばらく(できればずっと)は、人付き合いはさらに意図的に制限していくつもりです。会社とネット、他人と「会う」のはなるべくこれだけに絞ることにしたい。そういうことをして、自分に何が起きるのかを観てみたい、という気持ちもあります。自分を使って実験。なんだろう。こういった思考はもしかして、そこらの精神科に通う人よりよほど変なのかもしれない、という感じもありますが、幸いにしてこの世界では、「社会的には」問題であるとは現状見なされないため、こんな人でもなんの不都合もなく生活していくことが可能となっています。


なんかまとまってないですね。また続きを書くかもしれません。