すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

いつだって、私とはなにか。

東京猫の疲労と爆睡 より バカ社長みたいな「私」
(なんか日記の名前が変わってる…)

ほとんどtokyocatさんのウォッチャーみたいになってます。すみません。とはいえこの話題は取り上げないわけにはいかない。わたしが以前ちょっと触れた、前野隆司さんの本『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』の紹介・感想の記事です。わたしの記事よりずっと詳しいので、この手の話が好きな人は見てみてください。(ちなみにわたしは、クオリア系とか唯脳論系は「これはなんかちがう」と感じていて、まったく読んでいません)


さて。

《…私たちはもう、死を恐れる必要はない。
 なにしろ、私たちが失うことを恐れていた〈私〉は、実にちっぽけでささいな存在に過ぎないのだ。しかも、それと同じものが地球上に星の数ほどもある。(…)その中のたったひとつであるあなたの〈私〉が失われることをどうして恐れる必要があろうか。》
《…あなたの〈私〉がなくなったって、世界中にあふれているたくさんの〈私〉は存続していく、という意味において、〈私〉は永遠だ。》
このような気持ちになる理由もまったく分からないから、やはり私は上の解消法がよく分かっていないのだろう。この〈私〉がなくなったら、もう世界のどこにも〈私〉はないに決まっているではないか。〈私〉は世界にあふれているよと言われたって、それはこの〈私〉には何の救いにもならない。私はそう思うのだが…。


実際のところ、みちアキであるところの〈私〉は、死とかぜんぜんこわくもなんともありません。何度か書いてますが、多くの死に伴うであろう痛みや苦しみは嫌です。それとは別に、“死”自体にはまったく恐怖を感じない。おそらく、前野さんの達した結論はわたしが考えているものと同じだろうと思います。そういうニオイがする。ただ、本に載ってる前野さんの文章はやや舌っ足らずかなぁ、という感じはします。ちょっと唐突な印象。

わたしは、今まで「永井均のいう〈私〉」について語られてきたイロイロとまったく矛盾せずに〈私〉を解消する方法は、あると考えています(あります、と言ってもいいのですが、証明はできないので、いちおう留保しておきます)。この思想は、レイモンド・スマリヤンの本(『タオは笑っている (プラネタリー・クラシクス)』『哲学ファンタジー』)やアラン・ワッツの本(『タブーの書』)には出てきます(たぶんわたしは、そこらへんでヒントを貰って、自分なりに考えたんだと思います)。最初読むと、おぼろげにほのめかされているようにしか感じないのですが(前野さんの本もそう)、理解してから読むと「最初からちゃんと全部書いてあるじゃん!」というふうになる感じ。『タブーの書』はいい本だと思うんですけど、絶版になって久しいですね。

あと、フォローしておかなければいけないのですが、以前取り上げた『対角線上の悪魔―心は科学で証明できる (Exocentric theory (1))』について。この本、読み進むほど「トンデモ本だ…」という印象が増していき、このまま終わっちゃうのかなぁと思っていたら、なんと最後の方でウルトラCというか、わたしの考えているのと同じ「〈私〉を解消する方法」が出てきました。なんで!?と思った。あまりにもソコへつながる理屈が理解できなかったので。でも「まったく違う方からアプローチしても、同じ結論に至ることはあるんだなぁ」と、すごく嬉しくなったので著者のひとにメールでも出そうかな〜と思ったけどアドレスもなにも載ってませんでしたのでそれまで。ハガキとか面倒ですし。(でもこの本をお薦めできるかと言うと、難しい。9割の人にはやはりトンデモ本にしか見えないのではないかと思います)


まだわたしは「〈私〉を解消する方法」を人にはうまく説明できません。以前“Boot me up finally.”というのを書いていて、あの路線をさらに2-3エントリ書き進めると出てくるのではと思いますが、あれの時点でもはや誰も付いて来れなくなってる感じなので、今は書いてもダメかなと。電波文書にしか思われないと思います(←それはいまもそうだろう(お約束))。