すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

熊のダンス

「犬とデカルト」の続き。「何かがある」とはどういうことか?を、もうすこし掘り下げてみます。


みちアキこと“M”の言うところの「何か」とはどのようなものか? それは、ここでは「宇宙」や「世界」や「全て」とほぼ同じ意味だと思ってもらえればいいです。宇宙の端から端、時間の始まりから終わり、そのなかのモノ、モノだけでなくコトもそう、ありとあらゆる関係、あなたとMの関係、フィクションのキャラクターとMの関係、数十億光年彼方の宇宙空間を飛んでるひとつぶのニュートリノと近所の猫のヒゲとの関係、関係と関係の関係、そういったものを含んだすべて。それを「何か」と言ってます。「何か」と言っちゃうのは、それらをひとつの総体(宇宙・世界・全て)として見たとき、結局はそれはなんなのか、Mにはわからないからです。それは確かにあるが、「何」であるのかわからない。だから「何か」と呼称しています。


では、みちアキこと“M”の言うところの「ある」とはどういったことか? わたしたちはふだんから「ある」「ない」という言葉を使います。Mはこの「ある」「ない」には2種類あると考えています。ふだん使う「ある」「ない」は、2番目の意味においてです。このときの“ある−ない”は、見かけ上のものであって、真の意味での“ある−ない”を写し取ったもの、模倣したものです。このことについて、もうちょっと詳しく見ていきます。

たとえば、ここにテーブルがあり、その上に林檎があるとします。誰かが林檎を持ち去れば、テーブルの上から林檎はなくなります。その一部始終を見ていれば、Mは「林檎がない」と言うでしょう。しかし、新たに部屋に入ってきたYは、「林檎がない」とは言わないですね。Yはかつてテーブルの上に林檎があったことなど知らないからです。このように「Xがない」と言うためには、いちどは「Xがある」という状態になる必要があるのです。それはモノだろうがコトだろうが空想上のモノ・コトだろうが同じです。「南京大虐殺はなかった」「一角獣は存在しない」と言うためには、“南京大虐殺”や“一角獣”という概念は、存在する必要があります。このように「ない」と言いつつ、それは過去には存在していたことがあったり、概念としては存在していたりする。そのような「ない」を、Mは、2番目の意味の「ない」、見かけ上の「ない」、と言っているわけです。

(もし、時間の初めから終わりまでを一望できる存在があったら、その存在は、一定期間存在したモノについては「ある」と言うでしょう。わたしたちが、空間のXYZ軸の端から端まででなく、ほんの一部を占めるにすぎないモノたちについても「ある」と言うように)


では、真の意味での「ある−ない」はどういったものでしょうか。ここで「何かがある」の反対として、「何か」が「ない」ということを考えてみます。「何か」とは、冒頭で述べたように「宇宙・世界・全て」のことでした。これが「ない」とはどういったことか? 宇宙空間から全てのモノが取り去られた状態でしょうか? いいえ、そんなものではありません。それでも空間や時間は残る(ようにわたしたちにはイメージされる)でしょう。空間も時間もないのです。みっちりとなにかが隙間なく充填されたような状態? いやいやそんなものでもなく、本当になにもないのです。明るくも暗くもない、温度もない、論理も数学もない。世界そのものがない。わたしたちの脳でおよそ考え得るすべてのものが、ないのです。

さてここで注意してほしいのですが、上で言っている「ない」は、じつは「2番目の」「見かけ上の」ない、なんです。わたしたちはもう、「何か」、宇宙であり世界であり全てである何か、が存在していることを、知ってしまっている。だから、それがなくなったら?ということは、「2番目の」「見かけ上の」意味においてしか、考えられないのです。言ってみれば、「“ないこと”がある」というようにしか、考えることができない。真の意味の「ない」は、「“ないこと”もない」。「ない」ということすら、ないのです。

真の意味での「ない」、「何かがある」の否定としての「何かがない」は、ヒトの脳を借りて思考するしかすべのないわたしたちには、考えることができないのです。「何かがない」とは、「何か」がいちど存在したあとにしか言えません。世界が「あり始まる」前には、これから「あり始まる」のが世界であるとは、わからないわけですから。「何か」、宇宙であり世界であり全てである「何か」は、現に、既に、あるのです。それは、ほんとうは、「ないこともできた」のです。でも、「あってしまっている」。このことこそが、まずなにより驚くべきことであり、きちんと気づくべきことである、とMは考えるのです。なぜなら、「何か」の中に存在するすべてのモノやコトや概念や関係は、人間の歴史や恋や愛や“死んだり死なせたり”や、真偽や善悪や美醜や、普通の人が問題だと思っている全てのこと、幸福も希望も、そういったあらゆるすべては「何かがある」ことの上にしか成り立たないからです。


なんの本だか忘れましたが、「熊のダンスのニュースを聞いたとき、着目すべきは、それがどのようなダンスだったかではなく、そもそも熊がダンスをしたという事実である」というようなことを読み、なるほど、と思ったことがあります。「世界はいかにあるのか?」「どのようにあるのか?」ではなく、そもそも「世界があること」「なぜ、あるのか?」 Mはこっちを考えるのが好きだし、まずこっちだろ、と、そう思っています。