すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

いまここ(まだどこにも辿りつかない考え)

ぼくらの誰もが「ここにいる」と思っているその「ここ」というのは嘘ではないのか。考えてみる。たとえば、脳、の代わりに実はアンテナが入ってました、ということにしてみる。アンテナは電波を送受信している。相手は、どこかの研究所。その一室には、ガラスケースがあって、培養液に浸かった脳が浮いている。脳には電極が付いており、研究所の屋上のアンテナまで繋がっている、とする。脳にはそれ以外の入出力はなく、たとえば研究所の中の様子は、カメラもマイクもまったくないので何も知ることができない。ただ遠くにある体とだけ、信号のやりとりができる。この時「ぼく」はどこにいると感じるか。もちろん、「両目のうしろ、両耳の間」にいると感じるだろう。しかし、じつは脳はここにはないのだ。

……ということは、有り得る、起こり得る。こうして考えると、ぼくらが「ひとりにひとつの心が備わっている」と感じる理由も、単に脳に対し人間1体分の入出力しかないから、ということなのではないかという気もしてくる。入出力データは単なる信号なのだから、脳に2体分の入出力を繋ぐことも可能だろう。

そして「いま」も嘘ではないのか。以前「受動意識仮説について」という記事を書いた。『マインド・タイム 脳と意識の時間』という本も出ているけれど、カリフォルニア大学のベンジャミン・リベット博士の実験によると、人が何かをしようと意図するより0.5秒も先に運動神経は動き出している、とのことである。これはつまり、実際に体を動かす指令は脳のどこか他の部分から出ており、その結果を後から受信した「自由意志」が、オレが動かした、と「勘違い」しているに過ぎない、ということである。ここで考えられるのが、遅延は別に0.5秒でなくてもいいということだ。ボールが飛んできてそれを避ける、という動作があったとする。実際の避ける動作は脳の他の部分の指令によって既に行われており、その「録画」が「自由意志」に届く。「自由意志」は飛んでくるボールを見て「避けろ!」と命令する。しかしその命令はどこへも届かず「捨てられる」(既に避けた後なので問題ない)。ここで、「自由意志」に「録画」が届くのは、0.5秒どころかずっと後でも構わない。ぼくらが野球やサッカーの放送を見ても、録画と気づかなければ生放送と同じように「いけー!」などと興奮できるのと同じだ。

このことは、普段の自分の行動を詳細に振り返るとよくわかる。リベット博士の実験は非常に感覚にマッチする。たとえば、仕事でノートパソコンに向かっていて、何の気なしにパームレストを指でとんとん叩いてしまう。ペンをもてあそんでしまう。鼻を掻いてしまう。脚をぶらぶらさせてしまう。それらのことには、理由がない。ぼくはそれらをやろうと意図しているわけではない。なぜそうしたのかわからない。ただ体が動いてしまったのだ(そして掻いたあとで「鼻がかゆかったのか」と思う)。さらに、缶コーヒーを買いに行き、飲んでしまう。これを後から振り返ると「ぼくは喉が渇いた気がして、缶コーヒーを飲もうと思い、買いに行った」、あるいは単に「ぼくは缶コーヒーを買いに行った」という文章になる。しかしこれは嘘だ。過去を振り返るときにそれを言葉にせざるを得ないため、ぼくらは自分で自分を騙してしまうことに気づけない。あたかもそのとき自分が意図して行動したかのように。しかしぼくは実際は「喉が渇いた気」なんて「していなかった」し、「缶コーヒーを飲もう」なんて「思っていなかった」。少なくとも「ぼくは喉が渇いたような気がする」「ぼくは缶コーヒーを買いにいこう」などという内部対話は、言葉としては間違いなく「発生してはいなかった」。実際ぼくがなにか行動を起こすときに「ぼくはこうしよう」「ああしよう」などという内部対話・意図が発生することはまれで、ほとんどの場合は言葉なしに行動している。「自動操縦」だ。いかにも、自分が意図したふうに動いているが、よく観察するとけしてそうではないことに気づく。

これらのことが何を意味するのか。ここからどういうことを導き出せるのか。まだ考えている途中です。