すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

言葉の詩的側面

言葉を詩のように使うこと。絵や音楽のように言葉を使うこと。

……ってどういうことなのかちょっと説明したい。正しいとか間違いとか、誤解とか嘘とか。そういうものは、言葉を論理として使うから発生する。真実は人の数だけあるが事実はひとつだ、という。事実を言葉にしてしまうから人の数だけ真実が作られてしまうのだ。「コップ半分の水」を「もう半分しかない」とか「まだ半分残っている」などと語るのではなく、ただ「コップに半分の水がある」と感覚すること、それが「事実を見る」ということだ。

真や偽などというものは、言葉のないところには存在しない。より正確に言うと、言葉を論理として用いる場合にのみそれらが存在する。たとえばAという絵があったとして、それの否定である非Aの絵などというものを描けるだろうか? 音楽で嘘をつけるだろうか? 絵や音楽は論理の世界の内側にあるものではないのだ。だから「正しい絵」や「間違った音楽」は存在しない。存在するように感じるとすれば、それは絵や音楽を言葉を通して理解しようとしているからに過ぎない。

しかし言葉は、詩的側面と論理的側面の両方を持ってしまっている。だから困る、とは言わない。ただ注意して使う必要があると思う。ある「論理的な主張」があれば、それは必然的にその反対の主張を呼び込んでしまうということだ。blogに投稿される記事の群れを見てもわかるとおり、それは「必ず起きる」。誰かが「Bは○である」という記事を投稿すれば、別の誰かが必ず「いやBは×である」という記事を投稿する。注意するべきだ。先に投稿されたのが「×である」のほうなら、あなたは「いや○である」と言いたくなるのではないか。もっと言えば、そもそもBについて語りたい気持ちを持っていたかさえあやしいのではないか。言葉の論理的側面は、そういうものを誘発する。それは、「あなた」が語っているのか? もしかすると「言葉そのもの」があなたを通してみずからを語らせているだけではないのか?

ぼくは言葉の詩的側面を重視する。その傾向があると思う(ただし、そちらが好きというよりは、多い方(論理的側面重視派)より少ない方につくほうが有利だ、という本能的判断だろう)。言葉を、ラベルとして語る/読むのではなく、ガイドとして語る/読む。「言葉で語られたもの」は事実そのものではないし、事実の写像ですらない。“横浜→”と書かれた道標があれば、その道標やその場所が横浜なのではなく、この先に横浜がある。そのように言葉を語る/読むということだ(しかし犬に月を指差してみせても指先を見てしまう)。ある論争があるとき、複数の主張のどれが正しいのか? どれに「つけば」いいのか? ということではなく、それらの論争の裏にあるもの、それらが巡る中心にあるもの、引っ張る力を持つ「なにか」、指し示されている場所。ぼくはそちらに関心を持つし、持ってしまうようになっている。

とは言え、こうして語るときは、どうやっても言葉の論理的側面は滲み出る。それではない、これだ、というやり方でしか言葉は用いることができないからだ。語ることがAと非Aを生み出してしまう(こういうときに絵や音楽、踊りや「生き様」で表現ができる人たちをうらやましく思う。では詩人や小説家はどうなのか? それはまだよくわからない)。この文章自体も主張ではない。どちらが真でどちらが偽か、ということではなく、言葉の描き出す輪郭、言葉がなにを指し示そうとしているのか、そちらに目を向けて読んでもらえるよう期待しています。