すべての夢のたび。

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論理は世界を駆動しない

このエントリはつぎのちしきがあるとよりたのしくよめるでしょう。「セル・オートマトン」「ライフゲーム


イーガン『順列都市』を読み終わりました。さいごのほうちょっと、えー?これで終わり?って感じでしたけど。で、塵理論ではなくセル・オートマトン。こっちかなぁ?と。つまり世界をうごかしているのは論理ではなくてセル・オートマトンじゃないの?とぼくは思いついた、というわけです。


4次元の時空間をイメージしてください。これをT軸で瞬間毎にスライスすると、XYZの立体宇宙が現れますよね。……ってやっぱイメージしにくいか。じゃZ軸省略。XYTでいきます。これを時間軸で薄切りにすると、XYの平面宇宙が現れますね。

この平面内は、全体として無矛盾なのだろうか?

瞬間毎に、宇宙の端から端まで矛盾がない世界。この瞬間スライス宇宙を時間軸に沿ってどんどん積み重ねる。と、(Z軸は省略中なので)3次元の時空間が現れる。なんか、うすっぺたい紙をただ積み上げただけみたいで、横からケリ入れたら崩れそうですよね。いまの瞬間と、つぎの瞬間は、どうやってつながってるの? 「いま」がそれだけで完結しているのなら、どうやって「つぎ」が生み出されるの?

そこで、「嘘つきのパラドックスを解消するため、論理に時間軸を導入する」というアイデアをここで流用することにします。有名な「この文はウソだ」というアレ。「ウソ」がウソなら、「ホント」。ウソが「ホント」なら、「ウソ」。つまりこの命題は実際にいまも真偽が反転し続けており、その真→偽・偽→真のパルスが「宇宙における1クロック」である、とするのです。これによって宇宙にダイナミズムがもたらされる、「時間」が生まれる、「いま」と「つぎ」がつながる理由になる。というのはどうだろう? いわゆる「矛盾」は「いま」から「つぎ」に持ち越される、というわけです。むしろ矛盾こそが世界の本質である、と。

そんなふうにぼくは考えていたのですが、でも『順列都市』を読んだらセル・オートマトンのほうがいいかなぁって気がしてきました。でもって、論理とセル・オートマトンはどう関係するんだろう、と考えていて、ひらめいたのが、論理でいう「無矛盾」は、ライフゲームでいうところの「動きのない状態」に相当するのではないか?というものです。

セルの生死は次のルールに従う。基本的な考えは「過疎状態でも過密状態でも生き残ることはできない」というものである。

  • 誕生: 死んでいるセルの周囲に3つの生きているセルがあれば次の世代では生きる(誕生する)。
  • 維持: 生きているセルの周囲に2つか3つの生きているセルがあれば次の世代でも生き残る。
  • 死亡: 上以外の場合には次の世代では死ぬ。


ライフゲームのルールです。ウィキペディアより引用。論理における「無矛盾」とは、ライフゲームにおける「維持」または「周囲になにもない、死んだままのセル」なのではないか。しかし、では、「誕生」や「死亡」は「矛盾」なのか?というと、そうではないわけです。「誕生」や「死亡」でセルの状態が変化することこそがライフゲームにおいては、というかセル・オートマトンにおいては本質なわけです。つまりぼくはこう言ってみたい。論理的に無矛盾、なんてものは、動きの止まったライフゲームと一緒であり、やがて宇宙がエントロピー増大によって最終的に熱死を迎えるのと同じように、世界からは矛盾がどんどん解消されて最終的に論理死(無矛盾完全安定状態・真偽反転の宇宙クロックが生成されない)を迎える、というのはどうか。

どう見ても寝言ポエムです。ほんとうにありが(ry


まだ続きます(続くのかよ)。

ぼくが「論理よりセル・オートマトンのほうが世界説明にふさわしい」と考える理由はもうひとつあって、それは、「クロック」は外部から与えられるものだから、です。

ときどき、世界は法則に従って動いている、という人がいるのですが、これは間違いです。世界は法則に「従って」なんかいません。世界の動きを、「ナントカの法則」で説明できる(ように見える)というだけで、順番としては逆です(万物理論ができてさえ、そうです)。たとえばこの世界がもしシミュレーションなら、世界の外部にでっかいコンピュータがあって、世界の内部のことを全部いちいち計算して決めているわけです。その場合なら、世界は法則に従っている、と言えるでしょう。しかしこの世界はシミュレーションではありません(たぶん)。宇宙の外側にでっかいコンピュータがあって、リンゴの落下速度を計算しているのではない(たぶん)。ぼくの目に見える光景をレンダリングしているのではない。世界は外部から動かされているのではなく、内部から、自律的に動いている。

だからぼくがイメージする世界は、セル・オートマトンと言っても自己組織的な感じ。つまり全セルの状態をコンピュータが並列的に演算して次の状態が決定される、というのではなく、オブジェクト指向っぽく、各セルが周囲の状態を評価して自らの状態を勝手に変化させる、という感じ。この世界はそうやって成ってるんじゃないの?というのが、ぼくの世界論の最新型です(なんじゃそりゃ)。

思うのはですね、ぼくたちわたしたちがいわゆる「法則」って言ってるようなものは、実は「法則の影」なんじゃないかなぁ?ということです。それはどういうことかっていうと、たとえばなーんも知らない宇宙人にサッカーのビデオをえんえん見せたら、宇宙人は「サッカーの戦術」を「人が動くルール」と勘違いするんじゃないかなぁ、ということ。もちろん戦術はルールじゃないですよね。ルールから演繹されるもの、ではあるけど。たとえばチェスなら、理論上、どの局面にも最善手はある(んじゃないかな?)。でも、最善手なんてのはルールに含まれるわけじゃない。たとえば将棋のビデオ(?)を宇宙人にえんえん見せたら、「ふむ、“王”というピース同志は互いに反発するように動くのだな。他のピースの一部は“王”に引かれるように動き、一部は反対側の“王”に引かれるように動くのだ」という観察結果になるかもしれません。でもそれは将棋のルールではなくて、駒オブジェクトや将棋盤空間に課せられた制約から、そういう動きが導き出されているわけです。

まーそんなふうで、後付け・外付けの死んだ観察結果に過ぎない「論理」や「法則」を探求するのじゃなくって、その裏にあるセル・オートマトン宇宙の真のルールを探求するってのはどうかなぁ?とちょっと考えています。(もしかしてそれが「語り得ないもの」か?)


……これ、どこまで通じるんだろう(汗 「情報は出してけー」って梅田望夫さんが言ってたので、ぜんぜんまとまってないうちに書いてしまった。