すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

カリカリモフモフ

昨日の記事へのREVさんの反応。

「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」ということは、およそどんな人であっても疑わないみたいです。誰もそれを疑えない、あまりにもあたりまえに感じる。つまりこれほど強力なタブーはほかにないということでしょう(なにその陰謀論メソッド)。

つーか首を伸ばしていったいどうすんだろう。ええと、木のてっぺんの葉っぱを食べるのかな? 潅木、低木が絶滅し、地上にメタセコイアの高木しかなくなっても、葉っぱをたべるのかな?って、まぁそんなとこまで心配しなくても、そんなとこまで持ちはしないでしょうけれど。


たとえがあまり良くないかなぁ、と思いました。理由は、キリンの首の長いのはなんとなくちゃんと目的がありそうに見えるから、です。シマウマは縞でどうすんだろう? ロバが絶滅しても縞のままでいるのかな?とかそういうのが良かったんじゃないでしょうか。


で、目的論ですか。あんまりそういうのを意識して書いてはいないんですけどね。「『なぜ人を殺してはいけないのか?』と問うと『人を殺してよい社会は滅ぶからだ』と答える人は、『社会を維持したい』などと本当に考えてそう答えているのだろうか?」とか書くと長いですし。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』だって、「なぜ潰れないのか? なぜだ! なぜなんだ!?」と新書1冊使って問いを発してる本じゃなくて、たぶん経済とか何かを説明した本なんじゃないかと思います(読んでないのでわかりませんが)。

なにかが行われているとき、そこには必ずしも目的があるわけではない。そうですね。なら、わたしが何かについて考えるのも、必ずしも答えを出そうとしているのではなく、ましてや答えを出すことで社会に貢献しようとしているわけでもない、というのでも、別にいいんじゃないかなーと思いますが、どうでしょうか。いや、なんか目的がありそうに見えますか? カリカリモフモフ。


でも社会の維持には目的があったほうがいいような気はしますね、なんとなく。神とかインテリジェント・デザインみたいに外部から与えられる目的でなくても、じぶんたちで考えた何か、があったほうがいいような。おーきなものがたりとかゆーやつか?