すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

良エントリをご紹介

id:hitotsugiさんと連絡が取れて(だからサブアカじゃないって)、閉鎖した日記の記事は好きに使ってくれて構わないとの有難いお言葉をいただきましたので、もう1本エントリをまるまる転載します。昨日の「実名とか匿名とか」の続きにあたりますので、そちらを読んでからどうぞ。

2005-06-28
■ 「俺」しか語れない事なんて 01:50

大げさなことに聞こえるけれど。例えば、「自分の死後に世界は続くのだろうか?」なんて疑問は「俺」しか語れない疑問だと言うことだ。他人が語っていたら明確に否定できる。多分、君が死んでも俺は生きてるよ、と。しかし、「俺」の死だけはそんな風には解決できない。俺の死後、世の中が続くと信じるだけの根拠を、俺はもっていない。自分は無宗教だ。

どちらかというと危険思想だ。自分の死後に世界が続かないと考える人間は、恐らく、生きる気力が無くなれば死に際に凶行を為さない理由がない。*1事が為されれば、世間は無力だろう。宅間守に結局は何も出来なかったように。戦略的には、社会的に生きるには、「こんな問題何の価値もない。他人が死ぬように、自分も死ぬんだよ」と他人に言い続けるのがベストだろう。他人に信じ込ませ、さらには、自分でもそう、信じ込んでもいい。

実名で行動するっていうのはそういうことだ。責任ある行動をするならば、他人に対する影響を常に考慮し、自分の安全を守らなければいけない。嘘をつき、演技をしなければならない。ネットは誰でも読めるのだから、安全率は高めにとらなければいけなくもなる。

しかし、こんな、重要なところで、人生のそれこそ根幹に関わる部分で嘘を突き通すなんて。

ネットでは、今のところ、割合読める。社会的にはリスクが高いような、そんな文章が。同じような疑問*2を持っている人がいるのは、それだけで励まされるものがある。

また、それ以上に重要だと俺が考えるのは、匿名でそれらのことを問題にする人に、俺は明確な否定が出来ないということだ。君が死んでも俺は生きてるよ、とは言えない。どこの誰だかわからない人に、「君が死んでも」とは言えない。「誰でもない誰かが書いたもの」だからこそ、個人的な問題である「俺」の問題に適用できるかも知れないと思うのだ。

ネットの向こうの、実体ある人間を想像しなさいと言う人もいるけれど、身のある人間には言えないような種類の真実は、ある。語るにはドルバッキーが必要な真実はあると思う。老子が実在の人物でない可能性が高いと聞いたとき、ある種の納得がいった人はいないだろうか。

何かグダグダになってきた。予想通りのような。もっと思っていることを素直に書ければいいのだけれど。名無しでない以上、やっぱり書けない。

倫理の多くが基本的に"禁止"の集合である以上、禁止行為には人間の率直な真実が含まれる。それらも匿名でなければ書けないだろう。実名では書けないことはかなり多いと思うのだけれど。

責任もてない文章は書かないだなんて阿呆かと思う。一体何様なんだろう。書いた文章には責任が持てると言うこと? 誰が、どんな読み方するかもわからないのに? 日出づる国の太子が……→あわや戦争、だよ? 何かに対してちょっとでも責任が持てるなんて、軽々しく言うもんじゃないと思うけれど。ちなみに、俺は俺に対してすら責任が持てない。1日後の意見が今の意見と違う事なんて珍しくもない。

きっと、誰かにとっての理想は小学校の学級会みたいなものなんだろう。誰もそんなこと本気で思っていないのに、言葉だけが流れていく感じ。先生が、まともならまだ良いが。


*1:もちろん、積極的に為す理由もないけれど
*2:本当は同じ疑問ではあり得ない


「路上ラフレシア」からの転載はこれでおしまい。沙耶やC†Cや家族計画やドーターメーカー2やSEVEN BRIDGEをプレイした、なんてエントリもあったりして、個人的にはかなり興味深い日記だったのですが。