すべての夢のたび。

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あなたにとっての幸せとは?

脳が「生きがい」を感じるとき

脳が「生きがい」を感じるとき


なんとなくこの本は当たりである気がしたので、まだ60ページくらいしか読んでないけど紹介しちゃいます。なぜかPassion For The Futureがアクセス不能ないまがチャンスに違いない。

カバー折り返しより。

あなたが本当に欲しいものは、自分が思い描いているものではないかもしれない。

 人間は何を求めて生きているのか? ほんとうの満足はどこからもたらされるのか? お金、セックス、地位、食べ物、すべてが思い通り満たされたとき、はたして人は幸福になれるのか?
 その謎を解き明かすのは、ある脳内物質と人間行動の関係だった。脳科学者のバーンズ博士は、脳の欲求と人間行動の動機について解説しながらさまざまな生活習慣を持つ人びとの実生活を体験し、脳が求める「生きがい」についての答えを出すことに挑戦した。


ここで言われている脳内物質が、神経伝達物質であるドーパミン。そのドーパミンの受容体が集中して存在する「線状体」をMRIで観察することで、人はどういった条件のときに満足感を得るのだろうかということを探っていきます。そして、ここから面白い実験結果がいろいろ出てくる。先日「人生はゲームであることを忘れていたい人たち」というエントリで、ぼくはこう書きました。

プレイヤーというものは、どういうわけか、経験値が倍になるアイテムなら喜んで使うくせに、50倍になるアイテムなどは欲しがりもしないものなのだ。矛盾しているものなのだ。いつだって楽をしたいのに、そのくせ苦労して手に入れたものでなければ価値がないとどこかで思っているのである。


で、これに対して、

# 2006年07月20日 fromdusktildawn ↓そこのところがゲームと人生の決定的な違いですね。
# 2006年07月20日 p_shirokuma 娑婆ゲームなら、経験値が百倍になるアイテムでも喜んで使うよ。そういうアイテムがいらないというのは、「天井」のある世界だけだと思う。 ああ、MMOだったら天井があっても俺なら使うだろうなぁ。


というブクマコメントをもらいました(お2人ともエントリでも同じような言及をされていたと思います。このエントリへのトラックバック参照)。ところがこの本によると、線状体は、無条件で報酬が与えられた場合よりも、適度な作業の結果報酬が与えられた場合に、より活発に反応することが確認されたらしいのです(都合のいいときだけ「科学」を援用するみちアキ氏)。まぁ、このことはぼくの主張を後押しはするけれども、お2人の主張とも別に矛盾するものではない。たしかに人は、楽して手に入るならそっちの方がいいと思うもの、なのかもしれない。けれどもそちらは「本当に欲しいもの」からはちょっと逸れた方向を目指しているのかもしれないですよ?ということです。(そして、もちろんそんなものは実験室のなかの出来事に過ぎない、ということも言えはしますが)

最初の数章を読んだだけでも興味深い話がやたらいっぱいなんですが、もうひとつ、お金に関する話を紹介しておきます。ちょっと長くなるので途中を略して。

500ドル以下で買えるものをすべて挙げ(物ではないもの、経済学者たちがサービスと呼ぶものを含む)、500ドルでは買えないものもすべて挙げてみれば、500ドルで買えるもののほうがよほど多い。さらに極端な金額で言えば、この世に1億ドル以上の値段がつくものは非常に少ない。
 金の効用はその金額で買える可能性の数に根ざしているが、総額をやたらに増やしても意味はない。金で手に入れたいと思うもののほとんどは、ほどほどの値段がついているので、一定の金額があれば充分なのだ。あなたに500ドルほどのコンピュータかテレビを買う余裕があるのなら、すでにあなたは購買力の頂点を極めたことになる。

 ではなぜ、損をすると、もうけたときより深刻に感じられるのだろうか。それは、この世界のすべての品物とサービスの価格のつけられ方に原因があると私は考える。500ドル以下のものならなんでも買えるだけの金を持っているとしよう。その総額が増えるに従って、選択肢も増えていく――その数は先細りしていくとしても。反対に、もし同額の金を失えば、選択肢のすべてを失うことになるので損失は実際の金額よりはるかに多く感じられる。たとえば、ささいな交通事故や予想外の税金で500ドル払うことになったらどんな気がするだろう。新しいテレビやコンピュータなど、その金で買えたはずのものをあれこれ思い浮かべるだろう。こうして考えてみると、なぜ人は裕福になればなるほどリスクを嫌うようになるのかがわかる。裕福になると、得る可能性より失う可能性のほうが大きくなるからだ。

 人がより多くの金を欲しがっているように見える理由が、具体的に物を得るためでなく、可能性を増やすためだとしたら、何かに金を使っても思ったほど心は満たされない理由も説明がつく。何かを買うという行為は、ほかの可能性のいくつかを閉ざしてしまうことでもある。あなたは何かを買うことによって、得られたかもしれないほかの情報を失っているのだ。それを心理学者は「後悔」と呼ぶ。あなたは片方の目で望んでいた結果を見、もう片方で可能だった(しばしば「反事実の」と呼ばれる)結果を見ながら決定をくだす。したがって、あなたが何かを選択する際には、いくらかは後悔を避けたいという気持ちが働いている。買ったあと、自責の念――何か大きな買い物をしたあとで沈んだ気持ち――に駆られるのは、その金で買えたかもしれないほかのもののことを考えるためだ。
 この論理は、ふたつの驚くべき結論に達する。ひとつは、もし生活するのに最低限必要な金があり、欲しいものを買うだけの余裕もそこそこにあるとしたら、それ以上の金を手に入れると、1ドルの有用性は増えるどころか減ってしまうということだ。もうひとつは、好きなものが買えるだけの金が貯まったら、それを使うべきではない。さまざまな選択肢をもつのはよいことで、選択肢が減る、つまり金を使うのは悪いことだという結論である。


これでなんとなく、毎週神保町と秋葉原に行って買い物してるだけの自分がなぜ幸せだと感じているのか説明がつきますね。ぼくは「欲しいもの」が比較的安価なものばかりであることにより、および都内在住であることにより、おおむね欲しいものを欲しいときに欲しいだけ買える能力が備わってるということです(ということを、これ以上頑張るつもりがないことの理由として採用したい)。あとこれ、「金」を「時間」に置き換えて考えても面白い話になるかも。

まだいろいろ新鮮な話があるんですが紹介しきれない。ぼくはこの本を読んで行動指針を再編成したいと思います。