すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

追試や反証ができるものが科学、と言っておいたほうがいいと思う

はてな匿名ダイアリー : 科学とは「ナゼ」を追求するものではないのか

俺にとって「反証可能であるか」「追試可能であるか」どうかなどどうでもよく、
血液型性格判断も、マイナスイオンも、ゲルマニウムも、水への言葉も
「ナゼ」「どのような仕組みで」と言う部分をすっとばしているから「科学ではない」ではない。と言いたい。
「理由はよく分らないのですが、こうするとこうなります」
ではただの経験則であって、万人に通用するかは分らない。


それではマズい気がします。以前「「とげとげ」と「ねばねば」のはなし のつづき」という記事を書いたのですが、その一部を抜粋してみます。

ここで、「もうこれ以上分割できない」という最小の粒子がついに見つかったとしましょう。すると、私たちには「“それ“(最小粒子)がいったいなんであるか」はわからないのです。だって分割できないってことは「内部構造を持っていない」わけですから。“それ”について言えることはもう、なにもないということになるのです。「水素原子は陽子1個と電子1個からできている」とは言えますが、「最小粒子」についてはそういう言い方はできないのです。“それ”とは“そういうものだ”と考えるしかない。“それ”については他の粒子との関係によってしか記述できない、ということになります。


「ナゼ」「ナゼ」と繰り返し問い、どんどんその仕組みの根源へと遡っていくと、いつか「これ以上もう説明できない」という地点に辿り着くわけです。説明できるのなら、それは「より“小さい”仕組み」からできあがっていることになりますから、そこが根源ではないのです。

要するに、「ナゼ」「どのような仕組みで」をすっ飛ばさないのが科学、とするなら、科学は「科学ではないもの」の上に乗っかっていることになってしまうわけですよ。それはいかにもよろしくないように思えるのですが、いかがでしょうか?