ちょっと面白いエントリを見かけたので言及させていただきます。
good2ndの日記 : 穏健な宗教
なんというか、科学を信用していながら神や霊魂の実在をナンセンスと思わない、って一体どういう状態なのかうまく想像できないんですよね。
ぼくも思う。なんというか、神や霊魂の実在をナンセンスと思いながら初詣や葬式に行く、って一体どういう状態なのかうまく想像できないんですよね。
たとえばさ、ぼくが公園で空き缶を拾ってくるよ? で、あなたに「今からコレがお前の神様だ。毎日20分ほんとうに心からコレにお祈りしなさい。サボると死ぬ」って言っても、んなワケあるかーッ!!でしょう? でも、ぼくの思う「信じていないナンセンス」ってのは、つまりそういうレベルのこと。まったきゼロってこと。イチもニもなく、薄紙一枚差し込む隙すらもなく、「そんなこと絶対ありえない」。故に行動に至れない。でもさー、初詣や葬式に行くときの気持ちって、そういうものとは違うべなー?って思うんですが。つーか靖国に首相が参拝するなだの分祀しろだの笑うよなー。おまえら英霊とかいるって信じてんのかよ?いったいナニをギロンしちゃってるの?っていつも思う。
付き合いや世間体で葬式とか行ってんのかな。だとしたら、少なくとも、そうではない人たちに失礼だし、それよりなにより、もしももしも神や霊魂が実在しちゃったりするんなら、超ちょうチョウ失礼どころの騒ぎじゃ済まされねー、と思う。ぼくですか? ぼくは、そういうのは、いるともいないともわからん、という態度です。ただね。もしいるのなら、届け。いつもそういう気持ちで、手を合わせておりますよ? 神社やお寺にお参りとか、自分にとってとてもだいじな人が亡くなったときの、その霊前とか、そういう感じじゃあないですか? そしてその時の気持ちは、「空き缶の神様」とは明らかに違うものではないかなー、と思うのだけど。
いるともいないともわからん、という、この「わからんものをワカランままほっておく」こと、中腰のまま耐えることって、結構、体力とコツがいるんですよね。まぁぼくはもう慣れた(あと、「いるともいないともわからん」ってよりは「いてもいなくてもかまわん」かな)。「いや、なんとなく落ち着くから」とか「ってより、自分の心の整理のため」とかで“宗教行事”をやってるんなら、よく考えて欲しいんだけど、そのことこそがまさにナンセンス/ヒカガクテキじゃないのかなぁ。だってそうなる理由をちゃんと説明できないワケでしょ?
それと、
神サマが見てるから、あるいは、あの世や来世で報われるから、そのためによく生きるべし、と。
今この瞬間にもなんだかよくわからないスーパーな存在が僕のことを見てて、許してやろうとか懲らしめてやろうとか思ってるんでしょ?
これ。これどうなんだろ。ちょっと宗教的にnaiveなんじゃないかって気がする。もしぼくが神サマだったらw「神サマが見てるからいい子にする」人たちは、あまり優先度たかかないかなぁ。ママが怒るからお手伝いをする子と、自然にお手伝いをする子。もしも「どっちがいい子」か?ったらそんなの自明くないか?
「穏健な宗教」か。しかしまぁ、もし科学が宗教の一種だったら、少なくともそれは穏健ではないよなぁ、とは思う。