すべての夢のたび。

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言葉と意味

東京猫の散歩と昼寝 : 言語について素朴に考える(1)


非常に面白かったです。tokyocatさんは「〜という本を読み、とうとうひとつクリアになった」とエントリ中に書かれていましたが、このエントリを読んで自分もなんだか思考が前に進んでしまった。「動物は嘘をつけるだろうか?」あるいは「動物は嘘という概念を理解できるだろうか?」とかって以前に考えていたことがあるのですが、動物の“言語”がインデクスだとしたらちょっと無理そうですね。


ぼくがずっと(っても四六時中ではないけど)考えてることがあって、それは「“意味”とはいったい何か?」ということです。「意味が解る」とか「意味が無い」などという発言は、何をイミしているのだろう、という。これは要するにウィトゲンシュタインの「言葉の意味とはその用法のことだ」というような言い回しにいまひとつ納得がいっていなかった、ということなのですが。そこへもってきてペンローズの本を読んだら「計算システムには意味という次元は存在しない」みたいな発言を目にしてしまいまして。これは非常に重要な指摘であることは判ったんですが、そのイミするところは解らなかった(笑)。


“意味”とは、恣意的な関係性のことだ、というのが現時点でのぼくの理解です。イメージとしてはこうです(tokyocatさんのエントリの読後のほうがわかりやすいと思います)。空間に、無数のシンボル(=言葉)が配置されている。あるシンボルとあるシンボルは近くに配置され、また別のシンボルは遠くに配置されている。言語空間中のこういったシンボル同士の関係が、つまり言葉の意味である。このシンボルの配置は物理世界のモノの配置にある程度対応している。そしてある人の空間と別の人の空間中のシンボルの配置もそれなりに似ている。"A"という言葉を辞書で引いて"BをCすること"と書いてあるとして、それを読んで「意味が解った」と感じたなら、言語空間中のシンボル"B"と"C"の位置関係から、新たなシンボル"A"を配置すべき場所が判った、ということである。

「恣意的」な関係性、というのがきっとポイントです。対するのは、「論理的」な関係性。論理的な関係からは意味は出てこないんですね。それはなぜか?ということを実はまだうまく説明できません。力不足だ。でもイメージ(またイメージか!)としてはこんなふう。論理的に順を追って導き出せるものは、「あたりまえだ」と感じてしまうんですよ。そうではないもの、非論理的なもの同士の結びつきにこそ、「ウラに何かある」と人は感じられる、ということ。たとえばこの先の人生がこうなってこうなってこうなる、と見通せてしまったらつまらない。たとえば「いいじゃないか人間だもの」はちっとも論理的じゃないけどどういうわけかすごい納得(させ)力がある、みたいな。

で、たぶん、「人生の意味が解った」ってのは、世界の中の自分が配置されるべき場所が判った、ってことなんだろうなと思う。


tokyocatさんのエントリは"(1)"とあるようにまだ続くらしいので、期待しております。