すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

派遣村に流れ着いた人が最初に考えるべきだった、たったひとつのこと。

「自分はなんのために生きているのか?」



いやまぁ、「そんな哲学で腹はふくらまねーよ」と仰りたい気持ちは重々承知ですが、ちゃんと説明しますよ。ふたたび、こちらのエントリからコピらせていただきますね。


すくらむ : 派遣村バッシングの背景にある根強い自己責任論 - 人の生存より市場原理優先の新自由主義は退場を

 雨宮 しかし、「自己責任」論で、社会より自分に怒りが向くように刷り込まれてしまっているといえます。「社会のせいにするのは弱い人だ」とか、「問題をすりかえる人だ」というような言説がまかり通っている。
 小森 メンヘラー(心を病み、壊れることによってやっと生きのびる人※雨宮さんによる定義)の若者や貧困にさいなまれている人たちが、「自分は生きていていい」と思えない社会になっている。
 そして、どんなに理不尽な要求であっても、企業が要求してくることを、とにかくこなしていかないと、生きていくための最低限の給与も支払われないというところに置かれてしまっている。過労死するまで働かされてしまうということも湯浅誠さんが言う「ノーと言えない労働者」の問題 です。本来、法的レベルで労働者の権利や雇用する側の義務が定められていたはずの雇用が、事実上、奴隷的な労働にさえ至っているケースもある。そういう社会への異議申し立てを妨げてきたのが「自己責任」論です。


「雨宮」は雨宮処凛さん、「小森」は小森陽一さん。東大大学院教授で「九条の会」事務局長の方だそうです。「生きさせる思想―記憶の解析、生存の肯定」はこのお二人の対談集らしいのですが、先のエントリで引用された部分だけを読んでも、なるほど自己責任論は問題アリなんだなぁと言う気にさせられます。特に小森さんによる説明は、流れるようにわかりやすく、無駄がなく、スキもない。さすがその肩書きはダテじゃないなぁと思います。

しかし。ぼくに言わせると、その思想の一番おおもとにある(暗黙の)前提が間違っているので、そこから展開する論のすべてが無効になっています。その前提とはなにか? それは「生きることにはそれだけで価値があり、人は生きなければならない(死んではならない)」というものです。


そんなものは、フィクションです。ファンタジーです。生とは目的ではなく手段です。生きるのは、なにごとかを為すためです。


だってさー、考えてもみてくださいよ。派遣で安い給料で働いて、辛かったり、苦しかったり、悲しかったりいろいろで、それで派遣切られて、寒かったり悔しかったりで、派遣村に流れ着いて、まだ「仕事をください」と。そこまでして、そこまでして。そこでさ、「あなたは何のために生きているんですか?」って聞かれて、もし答えらんなかったらさ、ごめんぼく笑っちゃうかもしれませんよ。「特にやりたいこともないのに、なんでそこまでする必要があるの?」って。

それはよく訓練された奴隷じゃないの? 「やりたいこともないのにただ生きて働くこと」にまるで疑問を持たないのは。雇用者側にしてみれば真に都合が良い。そういうふうに、しつけられているんですよ。おつとめごくろうさま。


自己責任論の内面化などとよくも言ったもんです。ぼくには派遣村の先頭でいろいろ要求してるような人たちこそ、「奴隷の心得の内面化」の結果に見えるのですが。生きることは目的ではないし、ましてや義務ではない。だって、ふと気づいたらこの世界に放り込まれていたわけでしょう。なんの同意もなく、国も性も時代も親も自分では選べずに。なら、いつだって放棄してかまわないのですよ、そんなものは。それともここで生き続けることに同意したのなら……それが一番おおもとの選択なのであって、つまり、その先は自己責任になります、ね。

それでもなお、「生き“なければならない”、そんなのあたりまえ」と思いたいならそれはそれでいいと思います(上で引用した本のタイトルの象徴的なこと!)。しょせん、ぼくの語ることもフィクションでファンタジーです。どっちのフィクションが肌に合っているか、どっちのファンタジーを選ぶか、っていうだけです。(そしてぼくの語るやつが合ってる、って人のほうが少ないのは必然です。理由はわかりますよね?)