すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

死は怖いほうがいいのかも

後で書きますーとか言いつつ寝てしまい、日付けが変わったのでエントリを新たに起こすことにします。namelessさんのコメントを読んで思ったことを適当に。

死が怖いのは主に「それが絶対的に未知であり不可知である」ということと「生きていることが喜ばしい」ということによると考えます。


解き方のわからない知恵の輪をずっといじくりまわしていたら、ある時、かちゃり、とそれが解けてしまい、そしてもう元に戻せない。そんな感じですね、ぼくの「死」に対する感覚は。たしかに昔はそれが怖かったはずなのですが、もうその気持ちを思い出すことができません。未知であり不可知であることにいつか触れられるのかもしれないという思いは自分をとてもワクワクさせるものですし、生きていることはほんとうに喜ばしいけれど、それを失うことにも特に惜しいという感じはないです。価値を置いていないわけではなくて、なんていうんでしょうか、もう充分満足してるので、いつ取り去られても構わないという感じですが、取り去られるまでは相変わらず美味しくいただけますというふう。もうずっと余生を過ごしているという感じ。

死後の世界を一片の疑いも持たずに信じれば死ぬのは怖くなくなるのかもしれない。


そういうふうなエントリだったんですけど、実のところは、ぼくは、消失にも怖さは無いんですよね。自分が、いなくなってしまうということ。これも確かに昔は考えることすら恐怖だったはずなのですが、今は、それのどこが怖いの?という感じに、わからなくなってしまっています。自分が消えるとか、もしかしてすごく心が安らぐことなのではないだろうか、という気さえします。

自己の消失については以前「小さな黒い箱」というエントリで書きました。あれは珍しく、割とうまく書けてた気がする。

「自分が死んだ後のようすを上のほうから見るイメージ、ってあるでしょう。あれはじつはちょっと間違っています」

「すこし想像してみてください。死んだら、あなたは、小さな黒い箱に入るんです」

「その小さな箱はたしかに宙に浮いているんですが、あなたの家族や友人には、その箱を見ることはできません」

「箱の中からは外の世界のようすはまったく見ることができないし、音もぜんぜん聞こえてはきません」

「そして箱の内側は、一片の光もないので真っ暗闇でなにも見えず、またどれだけ耳を澄ませてみてもなんの音もしない、完璧な静寂です」

「その小さな黒い箱は、外部とはまったく完全に切り離されているんですよ」

「想像できましたか?」



「で、ひとつ嘘をつきましたけど、その箱の中にじつはあなたはいないんです。それが“死んだら終わり”ってことです」


うん、なかなかいいんじゃないでしょうか、自画自賛。

死ぬのが怖い、というごく普通の感覚は無理に消せばどこかで歪みが出るように思います。
上手く言えませんが、それは自然じゃない。
未知のものは未知のものとして、恐怖をあるがまま自然に受け入れるのが結局一番のように思います。


そうかも知れません。ぼく自身がその歪みを体現しているような気もします。死が怖くないと、映画やら小説やらゲームやらで、人が死ぬシーン、話を盛り上げるために、ああいうとき、なんか感動が薄くなってるような気がするんですよ。ああ、このひとたちは、死が怖いんだね? そうか、うんそうだよねぇ、って一度翻訳しないといけない。なんか、そこで、損してる気がします。

とか言いつつも、「もういちど死というものにちゃんと恐れを感じられるようにしてやるよ」と言われたら、いやー遠慮しますよ、って感じですけれど。隣の芝生ですね。