すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

人が歴史を作る

歴史修正主義云々がてブ界隈で流行中のようですが、参加できない。生半可な知識で飛び込んでも100%面倒に巻き込まれるだけなのでそれはいいと思う。

参加できない(というか、しない)理由は、単純に興味が持てないからです。「あった」「いやなかった」という話ですが、どちらにせよ、ぼくが実際にその現場を見ることはもう叶わないわけです。しかしこれは多分、歴史研究に携わる人たちには至極当たり前の話で、だからこそ丹念に証拠を集め精緻に検証を重ねるのだ、ということでしょう。が、その証拠と検証結果すらぼくは目にせず、web上で人から伝え聞くのみです。ただしこれらの証拠や検証結果は当然、誰もがアクセス可能な場所に存在することでしょうから、その手続きを踏まないぼくの側に問題はあるのだと思います。

それをしない理由は、まぁ、それでも所詮他人がやったものだしな、ということに尽きます。他人がやったものは信用ならないからこそ、「二次資料(史料)ではなく一次資料(史料)に当たれ」ということばが用意されているのでしょうが、一次史料ですら他人の手を介した編集結果です。ゼロ次の、事象そのものにはとうにアクセス不可能です(そして「事象そのもの」なんていうと一部の人には鼻で笑われることになる)。

まぁそんな感じで、「それでもよし」とする人たちはそのレベルの“信頼度”で「あった」「なかった」と言い、それで満足するのでしょうが、ぼくは満足できないタチなので、始めから関わらないというか興味が持てないわけです。


というふうに自分を分析します。そのレベルの信頼度に基づいて「あったらしい」でしかないものを「あった」と断言口調で語る人には、ぼくは違和を感じる。しかし翻ってみればぼくも「ヒロシマ」は「あった」と思っているわけだし、上で述べたような理屈は実は不要で、もしかすると単純に“吹き込まれ度”の違いだけなんじゃねーの?ってことかもしれません。研究者は研究過程で自分にそれを吹き込んでしまうのです。

とすると、吹き込まれない人たちによって将来的に「ヒロシマ」がなかったことになることは十分考えられます。いや実際、第二次世界大戦で日本が負けた?なにそれ?という若者(笑)は一定数いるようですし。そして既に周囲を見渡しても戦争の痕跡なんかどこにも見つけられませんしね。たまに不発弾発見のニュースを見るくらいで。吹き込む“教育”は、必要であれば必要でしょう、と思いました。


追記:「歴史修正主義」で爆釣しているエントリのブコメを見ても、なんであれで釣れてしまうのかがよく解らなかった。やはりぼくはその辺の感性が鈍いんだろう。参考にしようと思ったのに。