すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

なぜただ

なぜ死んではいけないのか/なぜ殺してはいけないのか、ということを考えているうち、それって、そもそもなんでそう決まってるんだっけ?っていうふうに、"底"を抜けてしまう場合があります。そして実は、そのあたりは単に決めごとであって根拠はないわけです。ただそうなのだ、守るべし、というわけで。

それはそれでいいのです。ところで、そもそもなんでそうなんだっけ?と考えてしまう人たちには、えーと、ぼくを含め? 基本、まじめで、どこか融通が利かないというか、おカタいというか、そういう部分があるのではないかなと思います。そして、良く在ろう、正しく在ろうとして、考えて、考えすぎてしまって、あるときフッと"底"を抜けてしまう。あれ、そもそもなんで死んじゃいけないんだっけ、殺しちゃいけないんだっけ、とか。思うに、自殺してしまったり、ひきこもりになってしまったりする人たちのなかにも、こういった性質があるんじゃないでしょうか。

でー、ぼくは、もう一歩さきへ進んでみたいなぁと思うのです。そもそもなんで、正しくなくちゃいけないんだっけ?という、そこのところを考えてみたい。というか、その、良く在ろう、正しく在ろう、ってのは、捨てられるのか?と。良く在ろうとした結果道を踏み外してしまうのならいっそ、というわけです。でもこの心のはたらきも、結局「良く在ろう」とすることの一部なのかもというかループ? もしかして抜けられないんですかね。まぁとりあえずいいや。

では、良く在ろう、正しく在ろうということを捨て去るとき、何を指針にあゆみを進めていけばよいのか?

いま3つほど考えています。ひとつは、自分の感性にしたがうということ。気持ちのいいこととか、好きだと感じられること。おいしいもの。美しいもの。嫌なこと。したくないこと。深く耳を澄ませて自分のそういった内部からの声をきちんと聞き取るようにすること。

ふたつめは、これ誰のことばか忘れてしまいましたけれども、「世の中には、やっていいことと、やったら面白いことしかないのだ」という、まぁ好きな台詞なんですけど、これを可、然り、とすること。

みっつめは、まぁふたつめと似てますが、人間の可能性を拡げる/拡げたできごとは、すべてよし、とすること。これは、あらゆる方面に、です。大規模大予算な科学の実験から、ちょっと怪しげな臓器移植まで、エクストリーム・アイロニングから、絶句するような殺人事件まで、すべてです。「すごい」と思わず口にしてしまうもののすべて。「すごい、なんでそんなことができるんだ」ってのは、賞賛のことばですよね。ぼくはひどい事件のニュース(車で何キロも引きずったとかバラバラにしてトイレに流したとか)を見たあとも同じことを言っている。そういうのをしていいとか、したいとか、もっとしろとかそう言っているわけではありません。ただ自由さを見ている。そんなものにすら人間は成ることができるんだ、っていう。その同じ力をもっと良いことのために、とそう思っているわけでもない。難しいですね説明するのが。

こうやって、良さ正しさを目指さないよ、というのがどこに行き着くのか。それはわかりません。なんでぼくはそうするのかもよくわからない。わからないけど話にはオチが必要なので無理矢理まとめると、与えられたソレをただ受け容れるのではなく、一旦ワクを外してみて、あらためてもう一度吟味して選択しなおそうとしているのかなと。良く正しく、人は、あるべきなんだよやっぱり、っていう。まぁ綺麗に一周してそこに戻ってこれればいいのかもしれませんが。