すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

この世界のはじまりへ

以下、ID論よりずっと寝言。



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Gizmodo Japan : 脳細胞画像と宇宙構造画像が似すぎている件


にわとりの卵というものは、あれで一個の巨大な細胞だ。1つが2つに、2つが4つに、4つが8つにと、細胞分裂を繰り返し、いろいろな器官が形作られ、やがて時満ちてひよことして生まれる。あらかじめひよこになるだけの数の細胞が卵のなかに詰まっていて、それがあちこち動いたり、くっついたりはなれたりしてひよこの形になる、わけではない。

なんで、そうなのか? 自然が無駄を嫌い、最短ルートを通ったその結果なのだ、ということなら、そうなのだろう。

では、この世界のはじまりはどうだったのだろうか? ある一点からビッグバンとして出発し、いくらかの時間の経過の後に、宇宙をかたちづくるだけのすべての材料が最小単位の素粒子として準備され、それらがくっついたりはなれたりして、こうなった、というわけだろうか。

どうかなぁ、と思う。自然が無駄を嫌うなら、はじまったばかりで宇宙におおまかな構造しかなかった時には、「最小単位」も「おおまか」だったんじゃないのか。そして時間が経つにつれ、宇宙に複雑な構造が生まれるとともにそれを構成するパーツもちいさなものとなり、やがていまの形となって安定した、というのはどうだろう。


「全体」が「部分」の寄せ集め以上のものになってしまうのは、それを見るやり方が逆だから。「全体」を「部分」に分けていったとき、そこからこぼれおちるものの中に、真実のかけらが含まれているのだということ。電子陽子中性子のなかに、結果的にタンパク質の複雑な構造や機能を生み出すことになる性質、やがて生体の細胞や、それらを集めた器官となっていく性質が"含まれている"わけではないということ。

ある何かと離れた別の何かが協調して働くように見えるのは、世界に"意味のある同期"、占いや虫の知らせのようなそれがあるのは、EPRパラドックスのような非局所的相関が存在するのは、それらがもともとひとつの出来事だったからであり、それを角度を変えていくつかの面から見ているのだ、と考えれば特に不思議はないように思う。その場所においては、2つのものごとが直接的な関係を持つわけではなく、2つのものごとには共通の根があるのだということ。


なんでこのようなことを言うのかというと、いまの世の中での一般的な思考方法が、事態をより複雑化してるんじゃないのかなーとか、そういう気がするから。ものごとをパーツへとバラバラにし、精緻さを追い続けれれば、やがては最終階層の究極原因に至れる筈という、いわゆる還元主義的な。そうじゃなくて、下ばっかではなく上も見たらどうか。何かと何かがあったら、その差異ではなく共通部分により目を向けたらどうか。分割していくのではなく統合していくのはどうだろうか。なぜそう提案するのか? 分割はキリがないけれど、統合は"1"で止まるから。そしてもちろん「なぜ、こうなのか?」を知りたいのなら、"はじまり"である"1"を追い求めるべきだと思うから。バランスが大事だとは思うんだけど、いまは反対方向への探求へ偏りすぎているような気がする。


追記:いや、宇宙は、落ち着いてなんかいなくて、現在も成長中なのかもね。最小粒子を追い求める科学者の行動が、そこで宇宙を創ってしまっているんじゃないのか。人間だって宇宙の一部なわけだし。スイスのLHCこそが、細胞分裂し続ける根の先端だというわけです。