すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

あえて「どうでもいい」と言う

BLUE ON BLUE(XPD SIDE) : なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京――

詳しく解説をいただきました。「なるほど」と思い、特に異論はありません。

以下、あまり考えずに適当に書きます。最初からいいわけ全開だ。

ぼくが「なんで南京にそんなこだわるの?」と思うとき、そこには「なんでホロコーストじゃなくて」という気分も入っています。それとか「パレスチナ問題じゃなくて」等々。まぁ、そのへんは書かなかったので誰もわからないとは思うんですけどw

ぼくが不思議に思うのはその辺なんですよね。あれでもなく、これでもなく、なぜあなたは南京にこだわることを選んだのか。id:crow_henmiさんの文章は、"南京大虐殺"を"ホロコースト"に置換しても、ほぼそのまま成立する。"パレスチナ国家を認めるか否か"でもだいたいいける。ではなんで、ある人は南京である人はホロコーストへ気持ちが向かうのか? これはきっと一目惚れと同じように、理屈は全て後付なんだろうな、と思う。ちょっと立場や環境が変わっていたら、自分の関心はほかへ向いていたかもしれない。ヘタすると敵側にいたのかもしれない。そういうことはあり得る。そのことを思うとき、やっぱり、簡単に反対陣営に「死ねばいいのに」とか言える人たちは、ちょっと嫌なんですよ。それこそ想像力に欠けると言っていい。「あった」「なかった」のどっち側にもそういう人はいるけれど、その人たちは、新しく同じ間違いを起こそうとしつつあるんじゃないのかなぁ。

もひとつ「どうでもいい」理由。「あった」派の人のエントリを見ると、「政府もあったと認めている」とか「多数の専門家があったと言っている」みたいな言葉が出てきます。ぼくは、"政府"や"専門家"が「あった」と言うことで「あった」ことになるような種類の学問には、深い関心が持てません。事実は、あったかなかったかのいずれかでしょう。しかしそれは過ぎ去ってしまって既に知り得ない。ぼくはその時、どれだけ証拠がそろっていたとしても、やはり「あった」と断言形で語りたくはないのです。「あったらしいですね」くらいに留まるのがぼくの倫理だと思う。じゃあヒロシマもそうなのかよ、と言われるなら、そうです、と言うほかない。怒られるかも知れないけれど仕方ありません。

さらに「どうでもいい」理由。誰だったか昨日あたり、たった70年前の事もリアルに想像できねーのか、みたいなエントリでブクマされてましたよね。できねーよとw 70年前のことがそんなリアルに想像できるんだったら、いまアナタがパレスチナやアフガニスタンの事を想像したら、自分の部屋のドアをぶち抜いてそのまま裸足で外へ駆けだしてっちゃうんじゃないのか?と思う。つまり、時間は関係ないでしょうと。どれだけ、自分の身に引き付けて考えられるようななにかがそこにあるか、ではないのかなぁ。と思うといくらか、先の「ホロコーストでもパレスチナでもなくなんで南京なのか」の説明も付くような気もする。でもやっぱり、南京はそれほどにはぼくにつながってはいない。日本にあまたある大問題のうちのひとつ、でしかない。ことさらに取り上げて「あった」「なかった」をはっきりさせなくてはいけない理由は、ぼくには見あたらないのです。(別に、はっきりしてしまうのは構わない。だから「国として、あったことを今一度はっきり認めて、賠償いたします」になるのなら、特にそれで問題もありません)

こんなところですか。「あえて、どうでもいい」派はきっと、「あった」派からも「なかった」派からも死ねって言われるに違いないw


あとid:tukinohaさんのコメントに少し。遅レスですみません。答えていただく義務はありません。

恥ずかしい話ですが「南京事件はなかった」という言説を真に受けてしまうジャーナリストや国会議員がいる以上、それを放置することは「国家がきちんと戦争責任を果たすことについて責任を持つ国民の義務」に反するのではないか、ということです。


ここでの「国民の義務」という言い方は抽象的なので、具体的にはどんなことをすればよいとお考えなのか、お聞かせいただければ幸いです。 あともうひとつ、

例えばみちアキさんが「戦争なんて俺には関係ない」とか「謝りたくない」と本心では思っていたとして、私はそれでもいいと思いますよ。


これはちょっと考え方の違いがあるように思います(ちゃんと書いたつもりだったのですが)。ぼくは「謝りたくない」と言っているのではありません。「謝れない」と言っているのです。ぼく個人には謝るべきことはないから、謝罪の気持ちが沸かない、と、そう言っているのです。それは例えば、人を愛する気持ちは「愛せよ」と命令されることで沸いたりはしないのとまったく一緒です。それは静かに、内側から起こってくるのを待つほかないようなことです(南京問題の謝罪に関しては、それは起こらないでしょうけれど)。会社で自分が原因でないトラブルで結果的に謝罪するハメになった時と同じような謝り方でよければできますが。