すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

見えない目で見る

つくづく自分は「目が見えない人」の話が好きなんだなーと思いましたが。

両親へは感謝の気持ちを述べ「親孝行のために早く自立して、よいお嫁さんを見つけて安心させたい」とニッコリ。「1日だけ目が見える日があったら? 一番見たいのは両親の顔。友達の顔や星、海や花火も見てみたい。でも、いまは心の目で見ているので十分満足しています」と会場を感動させた。


このニュースが2chで取り上げられてて、「そういう質問をするなんて残酷だ」「最低な記者だ」という感じで、概ね記者を非難する論調でスレが伸びていってました。「一日だけまともな記事が書ける日があったら、何を書きたいですか?って聞き返してやれ」ってレスがあって笑った。

で、これは、ひどい質問なのかどうか、なんですけど。(「子どもたちに光」のほうが、なんだかひどくないです?)

辻井さんは生まれつきの全盲だそうですので、見る、ということがいったいどういう経験なのか、基本的にはわからないはずです。こんなときぼくは自分に置き換えて考えてみる。ぼくが、ある感覚を生まれつき持ってない人だとしたら。宇宙人がやってきて「地球人は物がमइऋरれないなんて可哀相ですね!」と言われて、どう思うだろう。もともとそんな感覚ないんだし、別にどうも……なんじゃないのかなぁ。

そもそも"見"るということがどんな経験かも解らないのに、「××が"見"たい」などと言えるのだろうか? 「両親の顔が"見"たい」は、そういったことを考えない人たちによって度々、度々繰り返された質問に対する、あらかじめ用意された、期待された答えなんじゃないのかな。そういう気がする。

でも、「見る」とはどんなことかを、全盲の人に教えることもできるかもしれないな、とちょっと思った。例えば「触らなくても一度に全体の形がわかる」とか「遠くのものは小さく、近くのものは大きく感じられる」とか。そして視覚とはどんな感覚かイメージできるようになったら、なにかを"見"てみたい、って、ある程度実感を伴って言えるようになるのかも?


ぼくが辻井さんのニュースで凄いと思ったところ。全盲のピアニスト、って、まず楽譜が見えない、そして鍵盤の位置もわからない、って、それだけでもうどーなってんだー???って感じなんですけど、もうひとつあると思う。それは、曲想をふくらませるのに視覚イメージを利用できないこと。弾いてる曲に感情を乗せ、表情を付けたりするのに、目の見える人であれば、今までに見た美しい風景とか印象的な情景とか、そういうのを思い浮かべたりできると思うんですけど、辻井さんにはそれがない。なのに辻井さんの弾くピアノは技術だけでなく非常に感性豊かだという(もちろんそうでなくてはコンクールで優勝なんて不可能だと思いますが)。どうやって、その内的イメージは育まれたんだろうか。もちろん視覚を除いた聴覚・嗅覚・味覚・触覚だってそれなりに豊かだとは思うけど、人間視覚が8割って言われてますからね。ご両親にあちこち旅行とか連れてってもらったりしたのかな。それともやっぱり音楽を聴いて吸収したんだろうか。

ぼくなんかじゃ無理だと思うんですけど、聴く人が聴けば、全盲の人のピアノとそうでない人のピアノとか、聴き分けられたり、するんですかね? そのへんもすこし気になる。