革命的非モテ同盟 : 泣く子と女性には勝てない
すごいエントリだ、と思いました。熱く、力があり、心を動かされる。概ね同意同意、なんですけど、最近のぼくは良識ある人たちの怒りを買いまくるようなエントリばかり書いているので、ご迷惑になるかもしれないですし、こっそり応援ということでTBはしないでおこうと思います。
性暴力表現の肯定的意義を示すべき、ですか。まぁ、むざむざ撃ち殺されに出て行く理由はないですよね。それに、肯定的意義がないと存在してはならぬ、というのでもないわけですし。タバコ・芸術・お笑い番組・ホームレス等々。
ぼくも、この問題について、規制反対の側・擁護する側として何ができるだろう、と考えてはいるのですが、なかなか思いつきません。ただ、ぼくが参加するとしたら、それは議論の形は取らないだろうな、と。まぁ議論自体苦手ってのもあるんですけど。
理由の1は、この問題は、はてなでの議論が主戦場ではないだろう、ということ。仮にここでどういう決着が付こうが(そもそも付かないと思いますが…)、実際に法で規制する/しないの話には、そんなには影響しないだろうな、という。
理由の2は、この問題は、感情が知性に優先している、ということ。話し合って、納得して、わかった俺の主張は引っ込めるよ!とか、そっちの陣営になるよ!ってことは、まぁ、ない。先だって直感的に「嫌だ」とかそういう気持ちがあって理屈は後付けで動いてるから、お互い、言い負かされたと感じてもすなおに引き下がれはしないと思う。
理由の3は、議論に乗ってきてくれる規制派の人たちはまだありがたいのであって、擁護派にとっての本当の敵は、その後ろに隠れているだろう多数の、議論なんてハナっからするつもりもないよ規制規制そんなの当然でしょ、という人たちだろうということ。実際はここをなんとかしなくちゃいけないんだろうなぁと。
しかし、あまり、やれることは思いつかない。やっぱりせいぜい、また嵐がおさまるまでみんなで頭をひっこめて静かにやりすごすくらいしかないのかなぁと思う。規制の動きだけには目を光らせつつ。
陵辱ゲームを見て傷ついた、心に痛みを覚えた、という人がいるのは、理解できます。それは、砂糖をなめて甘いとか、生ゴミが臭いとかと一緒で、直接的な感覚だろうから理屈でどうこうはできないだろうと思う。そういう人たちのために、目に触れないよう、何らかの制限は必要だとは考えます。けれど、目に触れなくとも"存在すると想像するだけで心が痛む"ので規制せよ、というのは、ちょっとどうかなと。気に入らぬ物はその存在すら認めない、というのでは、原理主義的な宗教とほとんど在り方が変わらなくなってしまう。それは、行き過ぎじゃないかなと思います。たとえば雑菌を怖れて吊革に掴まれない人、みたいな、そこまでかたくなではこの世の中で生き辛いでしょう、という感じ。そこは「住み分け」で譲ってはくれませんかね、と思う。でないと本当にいつか、存在を賭けた戦いになってしまいます。