すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

他者について語るときに他人の語ること

BLUE ON BLUE(XPD SIDE) : 両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と


crow_henmiさんの上記エントリの、まとまる前の元ネタがtwitterに連続POSTされるところを見ていました。そこですかさずさりげなく「こういった文脈で出てくる"他者"ということばの意味がわからない」みたいなことをつぶやいたところ、REVさんから"ラカン 大文字の他者"で検索すべし、と教わったり、crow_henmiさんから直に話を伺ったり、萌え理論Blogのsiroutoさんからわざわざreplyをいただいたりすることになりました。(ありがとうございました)

しかし、crow_henmiさんから「みちアキさんは唯我論ぽいから難しいかもしれない」と言われたとおり、説明をどれだけ読んでも聞いてもやっぱりよくわかんないままだったりします。もしかして盲人が"青"ということばの用法を教えてもらっているような? このままでは、そのクオリアもわからないのに「空の色ですよね」とか「冷たい感じの色ですよね」とか使えるようになってしまいそう。

むしろEoE終幕においては、世界そのものが圧倒的に異質で拒絶的な他者として立ち現れている。

そして生きていくためには、「きみとぼく」だけではなく、周囲とその外部にいる無数の両価的な他者との結びつきが必要ではないだろうか。

(crow_henmiさんのエントリを引用しましたが、「他者」について追加の説明を要求するものではありませんw)


ぼくの居心地の悪さをどう言えばいいのか。引用した箇所のような言い回しに出会うと、なんだか文が足りないような印象を受けるのです。「他者として立ち現れている」。だからこうこうこうなわけよ、というところが略されているように感じる。そしてその省略が「他者」ということばを使う人たちの暗黙の了解のように見えてしまう。「必要ではないだろうか」と言われたけど、必要性の説明がなされていないように見える。やっぱり、そんなものはハナっからの前提だから、ということなんだろうか。

たとえて言えば、直角について書かれた文章のように見えてしまうんですよね。直角とはこんなものだ、って、もともと知ってることについての詳細な定義を説明されて、「ほら、こんなふうに本の角にも直角が見いだせる」とか「紙を4つに折ると直角が」とかいろいろ言われるの。で、「え? え? それがどうかしたの?」と言いたくなってしまう。それって、殊更に取り上げるようなタイプの話題だったんだっけ?という。

つまりぼくは他者性をテーマに書かれた文章の読者ではない、のかなー。そういう気がしてきた。

世界の理解のしかたの問題か、それとももっと単純に"他人に興味がない"ということなのか(だとすればこの文章はなにに向けて書かれているのか…?)。しかしそのことを突き詰めると、ぼくが漫画や小説を読んだ時に感じる面白さは、他人が感じているそれとは大きく異なる、というか、損してる?大事なコトを取り逃がしてる?んじゃないの、という考えに至ってしまう。それはちょっと怖いことだな。

盲、じゃなければいいな。鈍いだけなら、なんとかしようはある。まぁ多分、諦めの付け方の問題だけで、実際なんとかすることはないような気もするけど。