すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

ぼくをぼくたらしめるもの

はてブの新着でも注目でも、あるいはTwitterでfollowしてる人たちがつぶやいてることでも、ぼくの関心とはまるで掛け離れているなーと感じる(遠すぎてツッコミを入れる気もほとんど起きない)。ぼくが気にしているのは相変わらず「自分とは何か」という問いと、その周囲のことだけだ。


何年も何年もおなじことばかり考えているとさすがにすこし「わかって」くる。哲学や、宗教、心理学など、いろんな方面から"それ"はどう語られているのかを探っていく。哲学の本でわからなかった部分が、宗教書を読むことでハッと気づいたりする。螺旋階段を昇るように、"それ"の周囲を廻りながらだんだん高いところへ行くわけだ。

(しかしまぁ、近頃は、まったく脳科学である。哲学の人なんかはちょっと頭を休めて最新の脳科学の状況を確認し、いったん全部リセットしてからあらためて考え直した方がよいのではないかと思う。それぐらい、哲学の過去の"成果"を無効化するようなものが多い)


自分というものの生成には、記憶が決定的に重要だということがようやくわかってきた。自分が存在するというこのクオリアを支えているのは、空間的・時間的に"それ"が同一のもの、ひとつづきの繫がったものであるという記憶だ。「ぼくは昨日もこの体だったことを知っているし、その前もそうだったことを知っている」、こういう記憶がなければ、わたしはわたしであるという意識は立ちあがらない。

記憶を実現しているのは(物的一元論では)脳内のニューロンのつながりかたそのものであって、ここが脳をコンピュータのアナロジーで考えると間違い易い部分だと思う。コンピュータで扱うデータはソフト的に記録されるのに対し、人間の記憶はニューロンというハードウェアを組み替えることで実現されている。だから、曲がり角で出会い頭にぶつかってぼくと美少女の"自分"が入れ替わってしまうことは、残念ながら起き得ない。そうなるためにはニューロンの接続具合がぶつかったことで実際に変化することが必要になるからだ(繰り返すが、ニューロン上を流れる電気信号が記憶であるわけではない)。同様に、人の脳に人格を"ダウンロード"できるような未来も来ないだろう。

ただ、別の可能性がある。自分のことを天皇や神だと考えている患者と同じように、ぼくがもし何かの拍子に自分を美少女だと思い込んだのなら、それは真だ。ここでは外部からの評価は意味がない。他人がいくらこの林檎は青だと言おうが、自分には赤に見えるのなら、それは赤でしか有り得ない。医者が痛くないはずと言おうが、痛いものは痛いのだ。

そして少し怖いことだけど、「ぼくは美少女だ」というのと「ぼくは自分のことを美少女だと思っている」というのは、実際には非常に近い。というより、前者は後者の省略形に他ならない。どんなものごとであっても、それが人間の思考である限りは、「……と、わたしは思っている」が最後に付与されてしまう(この文章も例外ではない)。客観、などというものは存在せず、すべては主観なのだ。ぼくはみちアキだ。しかし、より正確には、ぼくは自分のことをみちアキだと思っている何かだ。この何かが、昨日と今日と明日とで同じである保証は、特にない。もし日々入れ替わっていたとしても、それがそれの記憶を基に「ぼくはみちアキだ」と考えるのなら、単にそれが真で、それ以上はなにもない。


しかしこの何かは、なぜかほかの誰かではなくこのぼくの中から世界を見ているんだった。ほかの誰かでも有り得たのになぜこの自分なのか、という問いは古くからあるものだけど、多分これは問いの立て方が悪くて解けないのだろうということを、最近感じるようになった。とはいえまだ人にうまく説明できるところまでは消化できてはいない。