すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

なぜころなう

crow_henmiさんがTwitterで「なぜころ」していたのを見かけました。

「なぜ人を殺してはいけないのか」についてゲーム理論の均衡概念を持ち出す説得方法はそんなに悪くないのだけど、例外社会においてはその論理が通用しない例外者がいて、そういう人たちには通用しない。彼らは社会に生きることを諦め、社会倫理で包摂できない存在と化しているからだ。

「なぜ人を殺してはいけないのか」をくそまじめに追求するとどうしてもそのような「例外」に突き当たる。そこに対して「それでもなお人を殺してはいけないのだ」と説得しうる理路というものを考えつめることができてこそ、この問いは陳腐でなくなる、とか。

逆に、社会倫理に包摂可能な相手であれば「人を殺してはだめだからだめなんだ」というトートロジーを力で強制することすら問題ではないといえる。「社会が許さない」「自分が損をする」ということの表象としての頑固オヤジパンチ、そしてそれによる馴致、みたいな。


特に異論ございませんが、久しぶりにちょっと刺激を受けたので、ぼくのいまの考えを書いてみようと思います。


「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて、例えばユダヤ教(やキリスト教・イスラム教)ですと「神がそう言っているから」ということになります。旧約聖書の出エジプト記第20章、モーセが神から十戒を授かるシーンですね。口語訳聖書から一部引用。

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。あなたは殺してはならない。あなたは姦淫してはならない。あなたは盗んではならない。あなたは隣人について、偽証してはならない。あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。


神が言うんだから、これは絶対です。こういう宗教の信者であれば「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、ここでストップすることになります。

では特定の信仰を持たない人が大半の日本では、誰がそれを言っているのかというと、特に誰もそんなことは言ってないんじゃないかと思うんですね。例えば、刑法にはこう書いてあります。

第26章 殺人の罪
(殺人)
第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。


「殺した奴はこうする」と書いてあるだけで「殺すな」とはどこにも書いてありません(あえてこう書くのは、聖書の場合は「殺すな」と「殺した奴はこうする」が併記してあるからです)。

それでは誰が言ったんだろうか。倫理道徳がそう言うから、というのは答えになりません。この問いはちゃんと書けば、倫理道徳が人を殺してはいけないと言うのはそもそも何故か?というようなものになると思われるからです。

で、その「なぜか」なんですけど、ぼくは最近はほとんど気にならなくなってしまいました(そういう形で問い自体が霧散解消してしまいました)。それは、倫理道徳がそう言おうが、絶対の神が「殺すな」と言おうが、結局のところ人は殺せるから、人を殺すことは可能だからです。

ぼくの住んでいるところは繁華街にほど近い住宅街で、コンビニも近所にあります。ぼくが包丁を持って走り出せば、多分今から数分以内に確実に誰かを殺すことはできるでしょう。でもそれをぼくはしません。いちいち書くのも変ですが、そもそも殺したい誰かもいないし、殺せば罰を受けるからです。逆に言えば、この辺りがひっくり返ったケース、誰かを殺したい、罰は気にならない、と、そういう人は、禁止命令があろうが関係なく、人を殺すのです。

というわけで、「この社会においては人は殺すことができるが、その結果としておそらくそれなりの報いを受けることになる」ということだけが真実で、「人を殺してはいけない」というのは、単に"社会からの(自分自身に都合のいい)お薦め"のようなものだと考えればよろしかろうと思います。ぼくはcrow_henmiさんの言う"「それでもなお人を殺してはいけないのだ」と説得しうる理路"は多分存在しないものと考えます(個人毎にならあるかも知れません)。どうしても殺されたくない/殺させたくないのなら、やはり最も有効なのは言葉でなく物理的な力でしょうね。


「ぼくが誰かを殺す」ことは、多分ありません。「誰かがぼくを殺す」ことについては、そうしたい人はそれなりの数はいるような気はします(殺したいまでは行かなくとも、こいつ死んでいいとか、別にいなくていいとか、事故とかでうっかり死ぬ分には全然構わないんだけどなとか)。でもって「誰かが誰かを殺す」ことについては、ぼくは以前ほどは気に掛けてはいないようです。