すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

『面白い』社会は何の上に成り立つか

損得ばかり考えていると本当につまらない。何を生み出すか分からないものに全力で取り組み思いがけない成果生むときこそが最高に面白いときだということを我々は知っています。最近は目的を具体的に持ちそれに向かって努力して成果を得るといったことが当然のように行われています。目的をもって行動し結果を得ることは要するに先が見えていることしかやらないということです。

『想定外』よりも『想定内』が求められる世の中です。社会全体を想定内に納めてしまっては、灰色の『つまらない』社会になるのは当然です。『想定外』を許容して、より面白く生きるための努力を厭わない社会を社会全体で担保する。そんな社会こそ活気に溢れた『面白い』社会ではないでしょうか。


今朝、上のエントリがはてブの新着に上がってるのを見て「こんなことを今更言ってもブクマされちゃうんだ……」と思った。昔から何度となく言われてることで、誰だってもう解ってるけど、なかなか実行はできない。それはなぜか? ではどうしたらいいのか? せめて、そこが始まりなんじゃないかなーと。

ぼくが、いったい何に成るとも知れぬ事をさぁやり始めることにしたとして、では誰がぼくの給料を払ってくれるんですか?って話だ。みんながみんな歌を唄って絵を描き始めたら、誰が食べ物をとってくるのか。「より面白く生きるための努力を厭わない社会を社会全体で担保する」ためには、「面白く生きる」人を「担保する」人、想定内でしかないことをする人が必要だろうに。それを「つまらない」って言っちゃーなぁ。

失礼だろう、と。ぼくはそんなことは言わない。

ぼく自身はどう見ても楽な仕事で並以上のお金をもらっている。実力と驕るつもりはない。この社会にぼくより安い給料で長時間働いている人がいるから、ぼくの暮らしは成り立っている。そのことに感謝こそすれ蔑むことはない。いや、そういう人たちがいてくれないと困るのだ。

さらに広い目で見れば、日本ぜんたいは「面白く生きる」側に属すると言える。途上国があればこその先進国であり、ここまでくれば、もうその差は「想定外」なるほうに賭ける生き方をしてみたところで容易にひっくり返せるようなものではない。ぼくが「面白く生きる」側にいられるのは、ただただ生まれついてのことで、まったくの偶然でしかないだろう。

格差は肯定される。面白く生きる人の生を肯定するのなら。そしてより大きな面白さの為にはより大きな偏りが必要になる。

いや、否定はできないだろう。だって現にもうそうなっているではないか、この星は。別に目指しているつもりはないのだろうが、そちらへ進んでいる。物と金は一方向に流れ、富めるものがさらに富む仕組みになっている。そしてそれを良しとしているのだから(もう一方の側にはそもそも選択権もない)。

それでいいよ、とぼくは思う。なにか面白いものを見せてくれればいい。そしてその欠片にでも与れれば御の字さ、と思う。せっかくこちら側にいるのだから、そのことに感謝して、彼らの分まで楽しむべきだ。手放すつもりがないのなら、それがせめてもの供養じゃないだろうか?(残しちゃ駄目! 食べられない人もいるのよ!ってヤツのことだ)

「平等」はつまらないだけでなく間違ってる。それはエントロピーを増やす方向だからね。