すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

我思う我書く

「我思うゆえに我あり」とデカルトが言ったことについて、ちょっといろいろ考えていました。

全てを疑うことが可能だとしても、それを疑う"我"が存在することだけは絶対に疑い得ない、とデカルトは言いました(多分)。では"我"の存在が他の全てのものごとの起点になるのだろうか、と考えると、それは違うだろう、と思うのです。

ことばだけを見ると、「我思うゆえに我あり」は正しいことを言っているようにぼくには感じられます。しかし、そもそも"我"とはなんなのでしょうか。"我"という概念がぼくの頭のなかにあらかじめ存在していたからこそ、ぼくはデカルトのことばを理解できたわけです。

「"我"とは○○のことである」といったように、その概念の説明には別の言葉が必要になります。知らない言葉は辞書を引くことにしても、どこかで定義はループになってしまうので、輪の外側に足場がなくてはいけない。結局は、ぼくが"辞書など引かないで得た知識"によって、"我"ということばの(ぼくにとっての)意味は支えられているということになります。

「"我"とは○○のことである」ということは、言い方を変えると、"我"とは××のことではなく、△△のことではなく、□□のことではないもの、ということです。"我"とは"ウサギ"ではなく"山"ではなく、"歴史"ではなく"交通"でもなく、"愛"でもなく"期待"でもない、要するに"我"とは「"我"以外の全て、ではないもの」と言うほかはなく、"我"以外の全てが"我"を成り立たせるために必要だということです。そして"思う"・"ゆえに"・"ある"と言った概念についてもそれは同じです。

あらゆる概念同士が互いに支え合った"世界"が既に存在していないと「我思うゆえに我あり」は成立しない。つまりデカルトのことばは、「世界に先立ちその始まりを告げるもの」ではなく、ただ「世界の中で確実な足場にできそうなもの」を指し示しているに過ぎない、ということになります。けれどもし、世界の始まりがなんであるのかわかったのなら、もちろんそれは足場としても機能するでしょうけれど。


続きます。(えー?)