すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

セオリー・ルール・システムデザイン

世界を将棋とします。なんの予備知識もなしに棋譜を眺めることになったとする。

ぼくのイメージはこうです。このとき、盤上の駒の配置や動き方のパターンを分析することで、こういう場合はこのように駒を動かせばいいのだな、という定石(セオリー)を考えていくのが、人文科学や社会科学、駒の動き方からこの盤上に定められたゲームの規則(ルール)を見つけ出していくのが、自然科学、そして、そもそもこの盤と駒のゲームはどういった意図で設計(システムデザイン)されているんだろうか、と想像するのが、宗教、なんではないかなーと。

……と考えると、別に科学と宗教は一人の人間の頭の中でも両立可能だろうと思います。対立する概念というわけではなくて、レイヤーが異なるのです。アメリカの科学者なんかはこんなふうなんじゃないですか。違うかも知れませんが。

でもって、科学の人たちの中の「神なんか存在するわけないし」という派閥の主張は多分、そんなゲームデザイナーなんかいない、ルールは自然に在った/成ったのだ、ってことなのでしょうね(違うかも知れませんが)。

個人的には、やはりセオリーを考えるよりルールを見つけていくほうに惹かれますね。セオリーはルールの内に含まれているものではないですが、ルールから生じているものだからです。根底にあるものを無視してはうまく進めることはできない。ていうかまぁ、基本を押さえりゃ楽できる、って気持ちもあるんですけどね。

そして、同じような心の動きが、ではそもそもなんでこんなルールになっているんだ?と、さらに深いところまでも考えさせる。同時に、ルール自体の美しさとあまりにうまく出来ていることに神秘を感じ、感嘆と畏怖の念を覚えることになる。そういった気持ちは科学の人たちの中の「神なんか存在するわけないし」という派閥にも多分存在するんじゃないかと思うんですけど、気持ち自体はきっと"自然"そのものに向けられているのでしょうね(解らないので想像ですが)。いや、"自然"に人格なんてないのだから、単に「ただそういったものだ」ということで処理され、そんな気持ちなんか最初から起こらないのかも知れませんが。