すべての夢のたび。

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アナザー池田のアナザー進化論

「池田先生」と"この界隈"で誰かが口にしたとき、それはいったい「宗教のほう」なのか「経済のほう」なのか?ということが問題になるわけですけれども、ぼくとしてはそこにもうひとり、「生物の池田先生」も加えていただきたいと考えている次第です。いろんな意味で負けず劣らずだと思う。


さよならダーウィニズム (講談社選書メチエ)

さよならダーウィニズム (講談社選書メチエ)


大胆な書名のこの本、一回読んだだけではその「構造主義進化論」(レヴィ=ストロースのご冥福を)がどういうものなのかよく理解できなかったので、いずれ再読せねばと思っているわけですが、冒頭第一章で挙げられていた「ネオダーウィニズムに対する反証」が、進化論についてちょっと考えてみる時になかなか興味深い事例と思われたため、下記に例を5つほど引用してみます。


例のひとつ目。アリの巣の中には他種の生物が共生していることがあります。それらがなぜアリに攻撃されないかというと、巣に特有のフェロモンをその生物もなんらかの方法で身にまとい、アリの攻撃を避けることができるからです。池田先生がオーストラリアで、ブルアントという非常にどう猛なアリの巣の中にいる珍しいカミキリムシを捕ろうと思ったときのこと、巣を掘り始めたところアリがどんどん跳びかかってきて噛むわ刺すわで命の危険を感じ、結局あきらめてしまったそうです。

 考えてみると、ブルアントの巣のなかに入るには、ブルアントそっくりな化学的な物質を擬態しなければならない。これは徐々に擬態していくわけにはいかない。徐々にやっていたのでは、その間に殺されてしまう。

ドーキンスはこう言いました。「もしあなたが魚であって、基本的には水中で生活しているが、時には干ばつを生き抜くために危険を冒して陸へ上がり、あちこち泥んこの水たまりを転々と移動するとなれば、半分の肺どころか、100分の1の肺からでも利益を受けるだろう」 けれどもそれはこういったアリと共生する生物の場合には当てはまりません。「100分の1の擬態」は無意味なのです。(本書では他にもアリノスシジミ、アリスアブの例が挙げられています)

 以上述べてきたようなアリと共生するような擬態は、擬態といっても、一気に擬態しなければならず、徐々にというわけにはいかないのだ。遺伝子が偶然変化して、すこしずつ擬態するというわけにはいかない。したがって、こういう化学擬態は、どう考えても自然選択でできたとは思われないのだ。これは、自然選択説にたいする古典的な反証例である。


例のふたつ目。ウラナミシジミという蝶の場合。この蝶は北上する性質を持っており、東北や北海道までも北上するらしいのですが、比較的暖かな所でしか越冬できず、北上した個体は寒さで全滅してしまうそうです。房総半島南部が越冬地として有名だとか。

 北上個体は遺伝子が残らないのに、なぜいつまでたっても淘汰されないのか。もし北上という行動が何らかの形で遺伝子に支配されているものならば、北上というやり方は自然選択により淘汰されて、南の方に定着する個体だけになってもよさそうなものだが、そうはならない。こういった現象は自然選択では説明できない。したがって、生物は徐々に適応的になっていくということは正しくないかもしれないということである。


例の3つ目。大腸菌。大腸菌はいろいろな酵素を作りますが、そのうちのグルタミン合成酵素について。大腸菌のDNAがその酵素をつくるコードを持っているわけですが、人工的に遺伝子に変異を起こしてやると、通常よりもっと性能のいい酵素を作れるようになってしまうことがあるらしい。

 大腸菌はおそらく何億年も生きている。大腸菌は原核生物で、原核生物の起源は少なくとも30億年以上前だから、大腸菌タイプの生物は少なくとも10億年ぐらいは生きているはずだ。その間、ランダムに変異が起きて自然選択により進化していたら、おそらくグルタミン合成酵素の活性は野生型が最高であるはずだ。10億年もの間には最適なものが選択されていてよい。
 ところが、遺伝子に変異をおこしてやると、かなりの大腸菌は確かに野生型の酵素活性より低くなるが、5分の1ぐらいは酵素活性が上がってしまう。ということは、野生型が最適ではないことになる。最適なものが生き残るというのはうそだということになる。

なお、この例については、ぼくは池田先生とやや異なる考えがあります。以前にも書きましたが、「適応したものが生き残る」のではなく「生き残ったものが適応したと言われる」のです(理解できないらしい人が"言葉遊び"と言っていましたが(笑))。大腸菌はこの状態、つまり「酵素活性が最適でない状態」が適応状態なのです(現に生き残っているのですから)。おそらくこれ以上に酵素活性が上がると、周囲の環境との間でバランスを崩してしまい、生存確率が低下するようなことが起きるのではないでしょうか?


例の4つ目。ケアンズ現象という、突然変異が偶然ではなく適応的に起こっているとしか考えられない例があるそうです。また大腸菌で説明されています。ある種の糖類の分解酵素を作れないように遺伝子を操作した大腸菌を、その糖類しかない培地に入れてやります。すると、飢餓状態になった大腸菌に対し、通常では50億分の1くらいの確率でしか起きない突然変異が2分の1くらいの確率でおき、その糖類を分解できるようになってしまうそうです。

 たとえばラクトースを全然分解できなくなってしまった大腸菌をラクトースだけの培地に入れると、しばらくするとラクトース分解酵素を活性化するような突然変異が起きてうまく生き延びる。これは遺伝子そのものに起きる変異で、遺伝子の活性調節でうまくいくということではない。突然変異は偶然であるということに対する大きな反証である。


例の5つ目。オサムシという昆虫の場合(手塚治虫の名前のもとになった虫ですね)。その中のオオオサムシ亜種という系統分類についてミトコンドリアDNAを使って調べたところ、大変妙なことになっていることが解ったそうです。

 オオオサムシ亜種には4つの形態種がある。形態種が本当に種かどうかは、種とは何かという定義が難しい問題なのでひとまずおくとして、その4つはオオオサムシ、ヤコンオサムシ、ヒメオサムシ、アオオサムシであり、さらに、それぞれのなかに亜種がたくさんある。
 日本中から集めてその分岐図をつくってみた。もし今までの形態に基づく系統分類が正しいとすると、最初にオオオサムシ、ヤコンオサムシ、ヒメオサムシ、アオオサムシという4つぐらいに分かれて、それらの亜種がまたたくさんに分かれていくという系統樹になるはずである。ところが、調べてみたら、まったく違う結果になってしまった。

ふつうに考えれば、そう思いますよね、形が似ているやつは、最近枝分かれしたやつ。あまり似てないやつは、分かれたのが昔で、現在までの間に進化したから別物になった。でもオオオサムシの場合はそうではないという。

 たとえば、高知のオオオサとヒメオサはつい最近分岐したことが判明した。ようするに、ミトコンドリアDNAの塩基配列がほとんど同じなのである。和歌山県のオオオサと三重県のヤコンオサもつい最近分岐した。和歌山県のオオオサと高知県のオオオサはきわめて遠いことになる。
 つまり、形態を調べるだけでは系統はわからないということだ。系統と形態とは関係がないのである。

 これが進化論的に見てどういう意味を持つかを考えてみよう。
 形をつくる遺伝子に突然変異が起きて、適応的に徐々に進化していくとするならば、かなり昔に分岐をして独立に進化したものは違った形になっていてもよいはずである。
 また、突然変異が偶然ならば、まったく同じ形がたくさん出現することはありえない。ところが、高知でも、和歌山でもどこでも、まったく独立にオオオサムシという形態種ができてしまう。だから、突然変異が偶然起きて形が決まるという理屈はおかしいのだ。

 形を決める核DNAがあったとして、そのDNAの突然変異はむしろ偶然ではない可能性の方が強いのではないだろうか。たとえばこの場合だったら、何らかのルールなり拘束性があって、核DNAは突然変異を起こすけれども、この4つの型以外の突然変異は起きないように拘束されていると考えればよい。
 ほかの突然変異は全部死ぬか修正されて、この4つのパターンの形になるものしか生き残れないのかもしれない。あるいはこの4つ以外の変異は不安定で、最終的には全部この4つのパターンのどれかになるのかもしれない。核DNAの塩基配列の突然変異は、単なる偶然ではないに違いない。

ちょっとググったらオサムシの系統について詳しく解説されているページを見つけました。こちら


5つの例について引用しましたが、1-3つ目が「進化の主因は自然選択」とする説に対する反証で、4,5つ目が「突然変異は偶然に起こる」とする説に対する反証とされています。あともうひとつ「進化はDNAに変異が起こることで始まる」という説に対する反証が本書では挙げられています。しかし、長くなってきましたので、そのへんはいつかわからない次回ということで。