すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

読書中なう

『幸運な宇宙』を読んでいる途中です。「池田先生」の書評もあったんですね。これ読めば、本書のネタが相当とんでもないものだと感じられると思います。ぼくはいよいよ退屈な箇所(ビッグバンとかクォークとか弦理論とか、普通の宇宙論の本のメインになってる部分)を読み終えて、なんかヤケにこの宇宙は人間に都合良くできてませんか??ってあたりに入ってきたところ。さて『Steins;Gate』が届く前に読み終わるんだろうか。(ところでやっぱり"シュタイン"ってアインとかウィトゲンとかのあれなんでしょうか。ドイツ語で"石"の。)


宇宙には意味も目的もない、と科学の人は言います。『幸運な宇宙』にも、ビッグバン"以前"のことを考えるのは無意味である、というような言い回しが出てきました(125P)。科学の人って、なぜだかそういうことを言いがちですよね。

もしも宇宙に過去の特異点という境界があるのだとしたら、ビッグバンは空間の起源であるばかりか、時間の起源でもあることになる。つまり、時間そのものも、ビッグバンと共に始まったのである。だとしたら、ビッグバンの前には何が起こったのかという厄介な問題はほとんど片付いたようなものだ。ビッグバンの前には時間は存在しなかったのだとしたら、そのような問いかけは無意味である。同様に、何がビッグバンをもたらす原因となったのかという問いかけも的外れだということになる。なぜなら、普通原因というものは、結果に先立って存在するのだから。原因となるものが存在する時間(あるいは場所)がビッグバンの前には存在しなかったのならば、何か物理的な原因が、ビッグバンをもたらしたものとすることもできなくなる。


宇宙には意味も目的もない、と科学の人は言いたがるけれど、ぼくの考えでは、それは誤りです。人の生には意味も目的もあり、人間は宇宙の一部分なのですから、当然、宇宙には意味も目的もある、ということになります。(この辺はそのうちもうちょっと書きたい)

それなのになぜ科学の人は誤るのか。単純に、使っている道具に問題があるからだろうとぼくは考えます。現在の物理学は世界の全てを描き出せるわけではありません。ビッグバン以前については語れないし、宇宙の存在理由については最初から扱う対象外として投げ出しています。ビッグバン以降の宇宙(つまりここ)についてもまだまだ十分に解っているとは言えないし、本質的に複雑系であるため仮に全ての法則が判明したところで未来の予測は立てられません。なのに、万能かつ唯一のツールを手にしている(もう手にした)つもりで、その狭い観測範囲だけを見て、意味ない、と言っちゃうのでしょうね。

しかし意味がないと言ってみたところで、明日の食い扶持は稼がなくてはいけないし、死ぬまで生きていかなくてはならない。つまり問題はなにひとつ片付いていない。なにより、意味がないと解っているのなら、そもそもなぜ"究極の法則"を追い求めたがるのか?

よく言われることだけど、そろそろパラダイムの転換が必要なのでしょうね。量子論には人間の意識がパラメータとして入っているのではないか、と考えている科学者もいます。観測者とは、観測行為とはいったいなんなのか。主観を客観につなぎ、意味と目的を宇宙につなぐ、そういった、ギャップを飛び越えさせうる何かが必要なんじゃないかと思います。(そしてなんとなくこれはクオリアの問題を思い起こさせる。多分実際無関係ではないのでしょう)

では、人間が誕生する以前の宇宙には意味も目的もなかったのか? もし、人間の誕生が宇宙の始まりからの必然・織り込み済みのできごとだったのだとしたら、宇宙にはそのはじめから意味も目的もあったのだ、ということになるでしょう。さてそういう結論になるのかどうかは、この本をもっと読み進めないとわかりませんが。