すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

真に普遍たり得るもの

宇宙のどこででも、物理法則は同じように働くのだろうか? ビッグバンの瞬間以前では物理法則は破綻すると言われている。もっと大胆に、ここから遥か遠くの宇宙では物理定数の値が異なっているのではないか、この地球でも重力定数の値は長年の内にいくらか変化しているのではないか、などと主張する人もいるらしい。あるいは定数だけでなく法則そのものが別物である可能性もあるのでないか、ということを言う人もいる。


では、数学はどうだろうか? ここから遥か100億光年離れた場所で1+1を計算したら、それは地球上と同じようにちゃんと2という結果になるのだろうか。なるように思える。いや、ならないようには思えない。いつでもどこでも、考え得る限りの場所と時間に於いて、1+1は2でしか有り得ないのではないか?

だがしかし、ビッグバン以前ではどうだろう? ビッグバンによりこの宇宙が始まる前はそこには何もなかった。もちろん物理の法則もなかった。しかしそんな"無"の中にでも数学だけは存在して相変わらず1+1は2だったというのだろうか。もしくはこの宇宙が終わり、全てが無くなり、"無い"という状態すらも無いような全き無に於いても、数学の規則だけはずっと存在し続けるのだろうか?

ぼくは、多分そうではない、と思う。数学は人が考えたもので、つまり人間の脳の産物だ。宇宙のどこでも、時間のいつでも、そこで計算を行ったらどうなるか、と「人が考える限りに於いて」1+1は2なのだ。数学は人の歴史上ごく最近に誕生したが、しかし時空を超えてその性質をこの宇宙の隅々に浸透させ、更にビッグバンを遡って宇宙の存在する以前にまで法則を及ぼす(ように見える)のだ。


さて、それでは、そもそもの「在る/無い」という概念自体はどうだろうか? ビッグバンによりこの宇宙は生まれ「何かが在る」状態になった。その前には「何も無い」状態だった。ではこの「在る/無い」ということ自体は、普遍なのだろうか。人がいなくても、それを観測する生物がなにも存在しなくても、ビッグバン以前であっても、何かがあったり、何かがなかったり、することはできるんだろうか?

ぼくは、実は「在る/無い」という概念も人間の脳の産物ではないか?と最近思うようになった。それはどういうことか? 例えば、ここにリンゴが在るとする。そしてそのリンゴを誰かが食べるなり持ち去るなりしたとする。するとここにリンゴは無くなる。このいちばん純粋で素朴な「在る/無い」概念は誰にも理解できることだろうと思う。

だが、実際には、リンゴは無くなったりはしないのだ。誰かが持ち去ったのならどこかに在るだろうし、食べたのならやはり誰かの胃の中にあるだろう。概念としての素朴なリンゴは無くなっても、リンゴを構成していた原子たちは無くなることはない。あらゆるものは物質の形を取るなりエネルギーに変化するなりして宇宙の中に存在し続け、決して消えてしまうことはない。つまり物理的にはそれらは「在る」という状態以外を取ることはできず、人の考える素朴な「無い」という状態は、この宇宙の物理的存在には適用できないのだ。「無い」は、古き人びとの観測範囲の狭さや観測そのものの甘さから生じてしまった概念なのだ。


となると、話が少し変わってくるのかも知れない。ビッグバン以前には本当に何も無かったのか? そうではない、と考える方がおそらく自然なのではないだろうか。「無から有が生まれた」と考えるより「何かがずっと在った」と考えるほうが、まだいくらか想像しやすいのではないだろうか?

しかしここで「ならばその"何か"はいったいどこからやってきたのだ!」と言いたくなってしまうのだけど、そもそも「無い」という概念が人の脳の産物であった以上、そのような考え方をすることはただ同じ誤ちを繰り返しているに過ぎない(人の考えた、「在る/無い」という概念を潜在的に含み込んだ法則の類は、すべからく再点検すべし)。それはやってきたりはしないし、無くなったりはしない。ただひたすら"何か"は在り、そして在り続けるのだ。