すべての夢のたび。

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ちょう大きな物語について

現代は大きな物語が崩壊し機能しなくなって代わりに乱立する数多の無根拠な小さな物語をあえて信じるコミュニティ同士がぶつかりあって云々かんぬん、みたいな言い回しをときどき見かけますが、さて、今日は超大きな物語について考えてみたいと思います。ひまなので。あとテン年代だし。

超大きな物語とは? まぁぼくが今朝がた出勤途中に適当に考えたんですけど、それは、ゴーギャンの有名な絵、『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』ってありますよね。あの絵の題のように、人間はいったいどこに向かってるんだろう、みたいなことです。

小さな物語Aと、別の小さな物語Bを信じる人たちは、ぶつかったりします。でも、それぞれのコミュニティの中では、それぞれ「良かれ」と思ってやっている。その「良かれ」の内容や、「良かれ」を実現する(と考えられている)手段や経路が異なるために、いろいろ衝突が起きたりするわけです。

でも基本的には、どのコミュニティも、真善美を志向している。まぁ、争い事がなく平和で穏やかで成長と発展が続いていく、みたいなのを良しとする方向性ですよね。これは大前提なのであらためていちいち口に出して語られることはありません。

でもそれ故に、この「良かれ」のなかみって、たぶん今までまともに検証されたこと、ないと思うんですよ。それはそもそも実現できることなのか? そして、もし実現したのならその後はどうするのか?

地球の人口は現在もどんどん増加しています。でも、あたりまえですが土地も資源も限りがある。さて、それらがついに限界に達しようとするときに、たとえば人はその後どうやっていくつもりなんだろうか。

宇宙へ出るのか、月面・火星、あるいは他の恒星系に移民を図るのか。移住できそうな平行世界でも探し出すのか。それとも自らをプログラムと化してコンピュータ内の仮想世界に移り住むのか。なにか革新的な技術が開発されブレイクスルーが起きるのを待ちながら、今の延長線上の暮らしをだましだまし続けるのか。あるいは、全体的な生活レベルを数十年、数百年前の水準にまで下げるのか。

実際には取り得るオプションはあまりなくって、成行きで「だましだまし」になるか、もっと急激に行き詰まって「生活レベルを下げる」か、その辺しかないように思います。そこまでも辿り着けずに、核戦争とか環境破壊とかでいきなり終わりが来てしまうことも、割とありそうな気もします。

そんなときのために、超大きな物語の方向性は、人類全体で(笑)、なにかコンセンサスがあったほうがいいと思うんですよね。人間は、どこへ行きたいのか。なにになりたいのか。どう、したいのか。

だって、個人、ひとりの人にだって、将来はこうなりたいとか、いずれはあれをしたいとか、あるわけでしょう。そういう目指すものがあって、初めて、じゃあそのために今はなにをしておかなければならないのか、それが判る、見えてくるようになる。でもそれって、人類全体についてだって同じじゃないですか? 人類、生きて、増えて、ただそれだけでよし、じゃないでしょ? なりたいものも計画もなしにだらだらやった結果がどうなるかなんて、みんな知ってるわけじゃないですか(笑)。

そんなわけで、なにか超大きな物語は、必要なんじゃないかと思うんですよね。ぼくが人類の行く末を憂えてどうするんだってのもあるんですが。でも今の首相なんかは宇宙の歴史とか地球益とか語っちゃう人だからこんなことも結構考えてそうなんだけど、首相はまずはもちょっと身の回りのことをきっちりしてからにして欲しいですよねと思います。