すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

偏見と共に生きる3

まだ続いたりします。

「アスペルガーは健常者より劣っている」という主張を、ぼくは偏見ではないと考えています(理由は以前のエントリに書きました)。一方、世間には「障害も個性である」という主張があります。ぼくはこれを「善なる嘘」と考えていますが、「世間的にそういうことにしておく必要のある、深く問うてはならないお約束の一つ」と考えている人もいるだろうし、中には単に「真実」である人(真実と考えている人ではなく、それを真実として(=障害も個性と心から信じきって)日常を生きている人)もいるでしょう。

「障害も個性である」という主張を守る・真とする場合、ぼくの考えは偏った・歪んだ見方と言えるので、つまり偏見だということになるでしょう。そんなふうに、あるものの見方が偏見であるかそうでないかというのは、立場によって異なったりするのだろうと思います。

ただ、「障害も個性である」という主張は、「差別は悪である」というもっとずっと強力で支配的な価値観の傘の下にあるため、最近ではもう異を唱えにくいものになっていると思っています。「いやー、ダメっしょ、障害者は」などと口にしようものならたちまち非難の声を浴びることは間違いないでしょう。というわけで、ぼくもわざわざ表だって「アスペルガーは健常者より劣っている」等と言うことはありません。

ですが心の中ではそういう考えを抱いています。なのでぼくは口では「いろいろですよね」等と言いつつ、アスペルガーの人がもし近くに来たら、一緒に仕事をすることを避ける、関わり合いになることをなるべく避ける、そういった行動を取るでしょう。周囲にそのことを悟られないように気を配りつつ、です。幸い、ぼくの近辺には今アスペルガーの人はいませんので、こういう良くない扱いを受けている人は実際にはおらず、また過去にもいなかったのですが。(そして今後もいなければいい。その方がお互いのためでしょうね)

もちろん「アスペルガーの人全員が健常者より劣っている」とは思っていません(さすがにそれは偏見だとぼくも思います)。しかし、「一般には」健常者より劣るとは言えるでしょう。そして、それでもう、避ける理由、避けるという戦略を選択する理由には充分なのです(「全員が車にはねられる訳ではない」と言って赤信号で横断歩道を渡ったりはしないですよね)。

こういうことをわざわざ言いたくなるのは、なんでしょうね。たとえ「善なる嘘」であっても嘘は嫌だ、という気持ちもいくらかはあるでしょう。「偽悪的振舞いの心地よさ」なんかも。でも大部分は単純に「趣味の悪さ」なんじゃないかなーと思います。「偏見と共に生きる」というタイトルは、ぼくは偏見を持ちつつ生きるよ、という意味です。最初からそのつもりで付けた。

たぶんもう一回くらい続きます。