すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

死んだら終り、ではないとしたら人はどうなるのだろう?

id:tokyocatさんの3/11の日記。本の感想なのだけど、その中にぼくがよく引っ掛かるキーワードがあったので、少しのあいだ考えていました。

「ブログもミクシーもツイッターも、やめようと思えばやめられる」…のだろうか? はたして。そもそもなぜ本を読むのかも、目的を考え出すとだんだんわからなくなってくる。インプットしたものやアウトプットしたものは脳になんらかの痕跡を残す(少なくとも自分の脳を通り過ぎてはいく)。だが、いくら読もうが書こうが結局消えていくだけじゃないか、という空しさと不安を捨てられない。これは「どうせ人は死んで終わるのだ」という空しさに近い。そして、読んだり書いたりが本当に空しいと感じられてくるのは、自分がいつか死んでしまうことを思うからかもしれない。生きてさえいれば、読んだり書いたりしたことのすべてはどこかに痕跡が残っていると信じることもできるのだが、死んでしまったら、それすらかなわない。(…ちょっと仕事が暇だと、いろんなことを考える)


途中で切りにくいので一節まるごと引用させていただきました。

いつだったか、はてな匿名ダイアリーに誰かがなかなか壮大な「死んだら終り」系エントリを書いて、数多くの人が釣られていました。ぼくもw そりゃ、宇宙まで終わったら、もう何も残らないよねっていう。

実はこの星に暮らす人たちは、宗教を持っているほうが多数派です。それは先進国であってもそう。日本のような国は珍しいのです。宗教があれば「死んだら終り」の絶望は取り敢えず回避できます(おまけに道徳を教えるにも役立つ)。しかしここは日本。ぼくはこの国も、「死んだら終り」という強力な呪詛に抗弁できることばを立ち上げたほうがいいんじゃないかなーと思っています。

それは長々と説明が必要なものであってはならないし、誰もが聞いてああそうかと納得できるようなものでなくてはならない。件の増田エントリも大量にブクマとトラバとを集めてましたけど、誰も呪詛を打ち破るのに成功してるようには見えなかったです。というかぼくがそれをやるべきなんですけど(笑)。ぼくは「死んだら終り」ではないことについての、宗教に寄らぬこたえを持っているのですから。ならそれを他人にも理解できるように示せないと、妄想乙、ということになってしまう。うん、やれたらいいですね。

ひとつだけ。こんなことをtokyocatさんに説くのはおこがましい気もするのですが、「何も残らない」という思考を変えるのが有効だと思います。たとえば、ぼくはお寿司が好きですが、「100ぺんの美味しい寿司を食べたという記憶」が、「たったいまこの瞬間に口のなかに入ってる寿司を噛み締めているという経験」に優ることは絶対ないと思います。わたしたちは、記憶を集めるためではなく、経験を味わうために生きているのです。見たとか読んだとか何々をしたとかではなく、ジーンと来たりぐっと来たり、そうか!と解ったりするその瞬間こそを存分に堪能すること、そこに注力していけばいいのではないかと思います(その結果として何かを為して何かが残ってしまったりすれば、それは幸いです)。過去や未来に意識を飛ばすのではなく、現在に集中する。もちろん、過ぎ去りし昔のことを"今"思い返すときの懐かしさ切なさの味も、なかなか良いものだとは思います(笑)。

何かが残る、あるいは何も残らない? 全てがなくなってしまっても、それがあった、それはあったのだ、という事実自体が消え去ることはないと思いますが。