すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

真善美と、その他の価値について。

エントリを書くにあたり、あらためて大辞林で"真善美"を引いてみた。

【真善美】
人間の理想である、真と善と美。それぞれ、学問・道徳・芸術の追求目標といえる、3つの大きな価値概念。

なるほど。ちゃんとジャンルが決まっているとは知らなかった。もっと漠然と、真善美とは人間にとって重要な価値というか基準というかそういうもの、って考えていた。そして、これは大事な順に並んでいるものだと思っていた。美は、すこし真善と匂いが違う。美しさの基準とか結構人それぞれの部分もあるし。でも真であるもの、善いものについては、それなりに一致するのではないかと思う。だからより上なのではないかと。

では、真善の順で良いのか。善真ではダメなのか(と、こう書くと某仕分け人の口調に似てしまうのだけどそういう意図はないしむしろ迷惑だ)、と考えてみたのだけど、やはり真善の順でいいんだろうと思った。なぜなら人は、生きる上で、良いことよりも正しいことの方を優先させているから。ぼくには世の中はそう見える。たとえ人のためになることであっても規則を破ってまでしてはならないのだ。

で、ぼくは、けれど自分は真善美よりさらに優先する価値基準を立てて行動するぜー、と思っていた(そして実際そうしているつもりだ)。それは、残念ながらいまのところ漢字一文字にはなっていないのだけど「面白いこと」「役に立つこと」である。つまりぼくは、正しくなくっても役に立てば構わないし、役に立たなくっても面白ければ別にいいじゃん、と、そう考えているのだ。面白ければいい、それが自分にとって最上位の価値だと思っていた。面白・役立・真・善・美、ぼくにとっての並びはこの順だし、このほうが正しい(というより"面白い")と思う。


けれど最近、どうもちょっと違うようだ、ということに気づいた。やはり並び順は真善美で、面白や役立はその下位なんだろうと思う。ただぼくがそっちを優先させているだけだ。

生物は進化している。そして進化は積み重ねだ。前からあるものが形を変え、改良されて、別の何かになるのだ。新しいものがいきなりパッと出てくることはない。真や善や美という概念も同様だ。一番上位にあるものは、一番後に出てきたものなのだ。一部の動物は美を解する。犬は善を解する(と思う)。しかし、真という概念は、言語を獲得しなくては扱えない。つまりそれを解するのは人間だけなのだ(イルカについては知らない)。きっと美しきものが善きものを生み、善きものから正しきものは生まれたのだろう。

そう考えると、役に立つとか面白いとかいうのは、これはもう美よりも明らかに下にあるものだろうと考えざるを得ない。その何かが有用であるか無用であるか、そんなのは生物にとっては基本中の基本だろう。面白さという価値基準も、見慣れぬ侵入物を猫が嗅いだり猫パンチをするとか、赤ん坊が取り敢えずなんでも口に入れてみるとか、ナマコを初めて食べてみようと思った人間はすごいとか、そういうレベルの話ではないのか。

つまり上位の価値ほど人間的で、下位ほど動物に近づくのだ。たぶん「なんでも面白ければいいじゃん」と思ってるぼくはドウブツなのだ。役立と面白のどっちが下位かは再検討の余地がある。けれど、ここにはさらに下位の、もっとも基本的な価値がある。それは漢字一文字で言える。"快"だ。おそらくこれがすべてのはじまりだ。大腸菌ですら快適な環境を求めるのだ。

気持ちよければいいじゃん。それは非常に解りやすく、またよく耳にする。そんでもって、頭悪そうである。そりゃそうだ。快には脳すら不要なのだから。けれど、ある概念が以前の概念から進化したものであるなら、美は快を含み、善は快を含み、真もまた快を含む。そうだろう。なんで美を追求するのか、それはキモチイイからだろう。善もそうだ。そして規則に沿って行動するのも数学的真理を証明するのもまたキモチイイのだ。となると、うん、そういう回りくどいことを経ずにダイレクトにただ快を求めるのもそれはそれでいいんじゃないかなーと思う。お腹いっぱい食べてあったかい布団で寝るとか。ドウブツでいいんじゃん、と。そしてぼくは最近はどうも動物である。せっかく人間なのに頭使わなくていいの?とそういう声も聞こえる。でも動物である、うーん。