すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

その先に見えるもの

Something Orange : 『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。


ぼくが関心を持っている領域に近いテーマであることもあり、大変興味深いエントリでした(いろいろな作品のネタバレを含むので注意)。思わずエントリ読んでた通勤途中の電車の中から140文字ジャストのツイートをしてしまった。

「その先」は、ぼくらが人間である限り、ない、んじゃないかなぁというのが、まぁぼくの考えなんですけどね。仮に世界の全てを理解したところで、ぼくらはお腹が減れば切ないし、刺されたら死ぬわけです。誰かに抱きしめられたらやっぱり嬉しいしね。そういう当たり前のところに帰って来ざるを得ない。


そしてちょっと補足。

世界の成り立ちを感得してから日常へ戻るか、人でないものを目指すか、二択じゃないかなぁと思う。


そんでこれらのツイートの若干の解説↓


結局、なぜぼくらは「よきもの」を求めるのか?って話になると思うんです(「善悪二元論の超越」を目指すことにしたって、そっちのほうがより"いい"から、ということに他ならない)。先日真善美がどーたらいうエントリを書きましたが、ぼくの考えでは、人が「よきもの」を求めるのはそれがキモチイイからです。人間の場合、理性と感情では、感情が勝つ。より深い部分にあるのは感情なのです。これは理屈じゃなくって、生物として進化を重ねてきた結果として、脳のつくりが実際そうなっているので仕方ないわけです。

人が何かをしようという時、その動機を根底まで追っていくと、すべて"快"に繋がります。真理を発見するのも快だし、善いことをするのも美しいものに触れるのも快です。自らを犠牲にして誰かを救う行動であってさえ、みすみす見殺しにする不快から逃れるためにそうするわけです。

社会の中のいろんなルールは、そういうことの上に仮構されたものです。あらかじめ世の中に真なるものや善なるもの、美なるものが存在していたわけではない。それらは全て人間が世界の中に見出したのだけど、その事実を忘れてしまっているものです(と思うのですが、今それがある以上、最初からあったのだとしても別にいいです。実在論か唯名論かにはこだわらないし興味もありません)。

そして、結局人間はそういう場でどう振舞えばいいのだろうか?というのが「その先」の話になるんだろうと思います。ぼくもまだよくわからないのですが(とりあえず現在は決断主義っぽく振舞っていますがw)、ひとつのやり方として、スポーツ/ゲームのように振舞ってはどうだろうか、というのを考えています。敵である相手を敬い、紳士淑女的態度を以て戦いに営め。真剣になれ、深刻になるな、というものです。サッカーでも将棋でも、そうですよね。それは言わば遊びであり(=真剣になれ)、遊び終わって還る場所である"リアル"が存在する(=深刻になるな)という合意があるわけです。そうではなく、"リアル"を遊びとしてしまいましょう、というのがぼくの提案です。なぜなら、戦いの真の動機はただお互いに快を求めたことであり、真善美の追求などは単なる仮構であってスポーツ/ゲームのルールでありフィクションに過ぎないからです。

とは言えこのルール/フィクションは人が生きていくに際しとても有効なものですのでわざわざ捨てる必要もない。ただ、裏に真にあるものはなにか、それを解ったうえでこのゲームをたたかおうぜ、というのがぼくの考えているところです。戦争を興して相手を殺すにも憎しみではなく敬意を以て(動物のお肉を美味しくいただく時と同じです)。それか、ですね、そもそもその、根底の動機として必ず快がある、っていう人間(まぁ生物みんなそうなんですけど)を捨ててしまおうぜ、という感じです。脳をいじったりしてね。ていうか機械とか最初から感情がないんだからわざわざ与えなくてもいいんじゃないか?って気もします。人と根本的に異なる論理で彼らは動けるわけだから。

若干と言いつつ長いんですが!w それでも相当端折ってるので意味通じないかも知れません。そしてこんな戯言をお話に落とし込めるのか、それ面白いのか?というところは問題ですね。いや、こんなのハナっからの前提で、もっと楽しめる新しいルール/フィクションを作ろうぜ!って話なんでしたっけ。